鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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DO Aせた狂歌絵本『絵本吾嬬鏡』は、重政の画風とは全く異なるものであることが指摘できる。この作品は、『絵本吾妻扶』刊行の翌天明7年、森島中良によって編纂されたものであるが、その全ての図が高い視点から名所全体の風景を描く鳥服図的な画面構成となっている〔図12〕。重政の『絵本吾妻扶』がそこを行き交う人物の描写に専ら関心を示していたのに対し、政美の『絵本吾嬬鏡Jの人物は点景でしかなく、広々とした空間を描くことにその関心が向けられているのである。重政の狂歌絵本の図様は、弟子である政美ではなく、正式な門下ではなかった歌麿の方へとその要素が引き継がれているのである。そして、寛政年間末以降、歌麿の狂歌絵本の制作は減少し、代わってそのジャンルを積極的に手掛けるようになるのが葛飾北斎であった。北斎は、寛政9年から、重政と同様に、蔦重で刊行されていた伯楽連の狂歌歳旦集に挿絵を描き、後に壷側の狂歌絵本である『東遊』(寛政11年刊)や『東都名所一覧』(寛政12年刊)などを制作している。北斎と関わりのある狂歌連は、伯楽連や壷側など、重政と重なるところが多く、事実、『柳の糸』や『堀川太郎百首題狂歌集Jなど、同じ狂歌本に挿絵を描いている例がしばしばある。重政と北斎の間に、どの程度の交流関係があったかは明確ではないが、狂歌絵本の展開を、狂歌連を含めて大局的に見る場合、重政歌麿北斎の大まかなラインが見て取れるのである。重政の狂歌絵本は、歌麿、北斎と脈々と続いていく狂歌絵本の流れの発端として位置づけることができる。そこには、狂歌という文芸の世界を通じて、北尾派あるいは喜多川派、葛飾派などの浮世絵の流派を越えた結び付きがあることが指摘できるのである。おわりに浮世絵師たちは、戯作者や狂歌師たちなど文芸の世界に属した人々との関わりが深く、その交流関係が絵本や摺物など、さまざまな作品を産み出す大きな要因となっている。北尾重政は、錦絵や肉筆画を中心に扱う従来の浮世絵研究では、着目される機会の少ない絵師であるが、文学とのつながりという観点からその作品を考察した場合、戯作者や狂歌師たち、さらには板元を含む、ジャンルの垣根を越えたネットワークを浮かぴ上がらせる視座を与えてくれる。まさしく重政は、今後、より多角的な観点が必要となるであろう浮世絵研究のために、その業績が見直されるべき絵師だと言える。

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