⑩慶派の造像活動の展開について一一天台との関わりを中心に一一研究者:栗東歴史民俗博物館学芸員松岡久美子はじめに鎌倉時代冒頭の南都復興に伴う造像が一段落した後の慶派の活動の展開を考えるにあたって、当時圏内最大級の力を持った天台との関わりを明らかにすることは、重要な課題のひとつである。近江は比叡山の膝下であり、たび重なる戦乱により失われた資料が多いという制約はあるものの、鎌倉期においては天台宗の優勢がほぼ決定的であった。そこで本調査研究においては、主に滋賀県下における慶派の影響力をうかがわせる作品について調査を行い、これを手がかりとして鎌倉時代における慶派の造像活動の展開を、天台宗との関わりから考えることを目的とした。もとより作品量の多さから網羅的な調査を果たせたわけではなく、継続して調査を行ってゆくつもりであるが(注1)、ここでは現段階での小括として、考察をまとめておきたい。はじめに先行研究について整理し、本稿での課題を明らかにしておきたい。鎌倉時代初頭の天台における造像活動については、主に文献にあらわれる仏師名の検討から院派・円派が中心とする見方があった(注2)。しかし岩田茂樹氏は比叡山麓の大津をはじめ滋賀県下に慶派風の作品が多くみられることを指摘し、天台の膝下という地理的条件から天台と慶派との関わりに立脚する可能性を示唆された(注3)。岩田氏は「天台宗関係の造像に慶派系列の仏師が参与してゆく過程については、いまだ不明な点が多いといわざるをえない」としつつも、快慶が承元元年(1210)に青蓮院蟻盛光堂後戸に安置された慈円発願の釈迦知来像を造像していること(注4)、建暦元年(1211)快慶の銘を持つ岡山東寿院阿弥陀如来立像が、青蓮院門跡で天台座主でもあった真性によって開眼供養されていること、建保4年(1216)快慶が青蓮院蟻盛光蔓茶羅諸尊を製作していること(注5)などから、快慶とその門流が、慈円や真性を通じて青蓮院門跡と関係を保持していたことが、天台への進出の足がかりとなった可能性を指摘された。このようにすでに知られた資料からは、快慶およびその門流と青蓮院門跡周辺との関係が、慶派の天台の造像への進出のひとつの鍵となっていたことが予測され、よって、まずはこの関係が生じた契機を明らかにすることが、慶派と天台との関わりを考える上での最初の課題となろう。-463-
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