1、近江の安阿弥様三尺阿弥陀立像滋賀県下の慶派の影響をうかがわせる作品のうちで最も多く見られるのは、安阿弥様の範轄でとらえられる三尺阿弥陀立像である(注6)。ただし三尺阿弥陀立像は、幅広い宗派から需要があり、動かしやすい大きさでもあることなどから、移動が多い像干重でもあった。浄土真宗大谷派寺院に属する栗東市永正寺の本尊阿弥陀如来立像〔図1〕は、真宗寺院の本尊として迎え入れられたことが確かめられる例である。像高81.3cm、面相を中心として13世紀第2四半期ごろの作品を思わせる厳しさを残す部分がみとめられるが、衣文はやや煩雑となり、形式的に整えたような部分も散見する。裳裾をはじめ衣が長く垂れ、像全体の重心が下がって重々しい感じを与えるなどから、製作時期は13世紀半ば過ぎごろを想定できょう。永正寺の立地する上鈎と隣接の下鈎一帯は、かつて近衛家の所領「鈎御園」(注7)があったところと推定され、長享元年(1487)に室町幕府9代将軍義尚が親征し、障を構えた故地とする寺伝もある。しかし現在の永正寺に直接つながる存在が確認されるのは、真宗寺院として出発する永正(1504〜1521)頃以降で、寺伝によると永正7年(1510)に本願寺第九世実如より十字名号等をさず、かつて道場となり、のちに教如より寺号と木仏安置の許可を得た。近江湖南では真宗勢力が織田信長と激しく対立し、これが平定された後、政権側の支援をうけていくつかの寺内町・村の再建が進められたが、永正寺のある上鈎寺内はそのひとつである(注8)。本像にかかわる記録に、19世紀初頭ごろの選録と推測される住職中氏の系譜(永正寺文書)があり、本像が元和2年(1615)に当寺にもたらされ、本尊に迎えたことが記される(注9)。木仏安置の許しを得た後、何らかの理由で新造の木仏をつくらず、本像をまつったと推測される。当寺周辺には、中世には実質的に天台の影響が強かった金勝寺や、その影響下に営まれた寺々が多くあり、このような宗教風土の中で造られた像が近隣の堂舎より移座された可能性もある。しかし彦根市宗安寺の阿弥陀知来立像が大阪より移されたとの伝えを持ち、長浜市舎那院の薬師如来坐像も兵庫県の円教寺から移座されたなど(注10)、後進寺院に迎えられた小型の像には、場合によってはかなり長距離の移動もありえたようで、現在の環境のみを手がかりとして造像の経緯を考えることには限界がある。浅井町大古寺の本堂脇壇に安置される阿弥陀如来立像〔図2〕もそのような例で、像高は77.4cm、着衣の形式は安阿弥様の中でも古い例に属すが、全体にやや単調とな464-
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