り腰から大腿部の造形にややバランスが崩れるなどから13世紀半ば近くの作であろう。寺史をたどると、遅くとも平安時代の末には記録に確認され、平治の乱に巻き込まれた後、建久頃には鎌倉幕府の助成を受けて復興が行われている。建武年中には回禄に及ぶものの、室町期には足利将軍家の祈祷所にもなっていたが、16世紀以降たび重なる兵火をこうむり、江戸時代後期には僧房一宇のみを残すのみとなった(注11)。このような背景においては、本像の伝来や当初の造像の経緯を確認することは不可能である。しかし仮に像の移動等の可能性を考慮しても、全体として三尺阿弥陀立像の量の多さは否定しきれないように思われる。当時の近江全域で、天台の影響が強かったことを考えれば、状況証拠とはいえ、このことは慶派、とりわけ快慶周辺と天台とのかかわりを明らかにするためのひとつの手がかりとなるのではないか。2、快慶と青蓮院門跡周辺との接点快慶はその生涯において、東大寺復興期における造像を除けば、朝廷や幕府中枢の公的な立場からの造像に携わる例はまれであった。むしろ主に個人的な信仰のつながりによって造像活動を繰り広げたようにみうけられ、彼の造像には、重源や明遍といった真言系統の人々だけでなく、法然や初期浄土教団が関わる例も多かった(注12)。快慶自身、アン阿弥陀仏の号を使用しているように浄土教的な性格を持っており、「其身浄行也、尤足清撰欺」(長谷寺再興縁起)と評されている。快慶が生涯において多数造像している三尺阿弥陀立像が、浄土思想、を背景としていたことには言をまたないだろう。当時の浄土思想、には、天台真言の別を間わず、根底に貴族社会全般に育まれてきた浄土教的な精神風土を共有していた面があったようで、青木淳氏が、快慶の遣迎院阿弥陀如来立像をはじめとした結縁交名の分析から明らかにされた天台、真言、南都を含む連続的な結衆のあり方も、彼らがそれぞれ宗派別に分断されていたのではなく、むしろ当時の全体的な浄土思想的な風潮のなかで地続き的に存在していた状況をうかがわせる(注13)。このようなことを背景として快慶周辺と天台との関わりに注目すると、その初期の明らかな例には、こと(注14)源延上人の活動が背景に知られるが、これが天台の念仏三昧を修する常行堂にかか(a) 建久5年(1194)ごろの京都遣迎院阿弥陀如来立像に天台僧の結縁がみられる(b) 建仁元年(1201)伊豆山神社旧蔵広島耕三寺阿弥陀知来坐像の造像にあたって-465-
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