(c) 承元4年(1210)に青蓮院蟻盛光堂後戸に安置された慈円発願の釈迦像をつく(d)建暦元年(1211)の岡山東寿院阿弥陀如来立像が、青蓮院門跡で天台座主とも(e) 建保4年(1216)青蓮院の蟻盛光蔓茶羅諸尊を製作していること(注17)(a)が天台の枠にとどまらない念仏結衆の勧進をうかがわせる結縁交名を持つこと、(b)の源延が、法然から『浄土宗略要文Jの一書を与えられていること、また(d)の例などわる像であったこと(注15)っていること(注16)なっている真性によって開眼供養されていることなどが挙げられよう。やはり天台の中でも青蓮院門跡との関係はひとつの重要な契機であったと推測されるが、ではなぜ、青蓮院周辺とつながりを持ちえたのかと考えれば、からみて、浄土教的なものを介してであった可能性を指摘できるのではなかろうか。とりわけ慈円をはじめとする青蓮院門跡との関係を考えるならば、慈円の受法の師のひとりでもある観性や、のちの西山義の母体となってゆく西山往生院の存在が大きかったと思われる。観性は慈円の受法の師のひとりである。慈円の兄九条兼実とも親しく信仰上の交わりを結び、兼実の日記『玉葉』にも、兼実と観性、慈円の交流が多く記される。覚快や全玄からの受法に加え、観性の影響は慈円にとって大きなものだった(注18)。観性の活動の拠点は西山にあり、仁安4年(1169)には当時の往生院の院主と思われる賢仁から往生院を譲られている(注19)。西山往生院は、のちに証空らの活動によって浄土宗の西山義の根拠地となってゆくが、当時は山門に属する善峰寺の塔頭的な存在であった。西山は慈円にとっても親しい土地で、善峰寺や西山別所(往生院)をしばしば訪れている。またここは、浄土教的な側面をはぐくんできた土地でもあった(注20)。観性のころの往生院で営まれていた浄土思想は、天台の教学の範轄を超えるものではなかったが、観性自身も、母の父である右大弁藤原為隆が『尊卑文脈Jに「大往生人」とあるなど、浄土思想的なものへ親近性を持っていたようである。西山往生院は観性から慈円に譲られ、建暦3年(1213)の慈円から道覚への門跡領譲状案(注21)には「別相伝」として「西山往生院[観性法橋旧跡]」が記されている。しかし承久の乱後、幕府の介入を受けて、師跡はー且後鳥羽の皇子である道覚ではなく良快に譲られた。往生院は、建保年中に証空が住するところとなっている。しかし道覚は、承久の乱後に西山に篭居しており、青蓮院門跡に連なる人々と西山との縁は続いていたのである。『証空上人絵伝Jには、証空と道覚の交流を記すが(注22)、故466
元のページ ../index.html#476