なきことではなかっただろう。仁治4年(1243)の年記をもっ納入品のある大念寺阿弥陀知来立像の、納入品のうち月輪牒には証空とともに道覚の名が見える。この像は京都真正極楽寺の阿弥陀立像の模刻であるが、真正極楽寺像は『真如堂縁起』に叡山常行堂の円仁自刻像を写したと伝えるもので、『証空上人絵伝』には本像が道覚の臨終仏であったと読める記事もある。古像を写すため作者の作風をよみとることは難しいが、明快な相貌などに慶派の風を見るむきもある(注23)。先述の岡山東寿院の快慶作の阿弥陀立像を慈円の弟子真性が開眼していることなどを考え合わせると、これらの背景には、西山における青蓮院門跡周辺の人々と、のちの西山義につらなるような人々との交流、それを接点とした青蓮院と快慶との関係が浮かび、上がってくる。慈円は、既存の体制を見るからに揺るがせる者や破戒の僧については排斥する態度を示したが、証空のように浄土教的側面を濃厚に見せる者でも天台の徒の範轄におさまる場合には包容力をみせ、浄行を守るものについては、必ずしも否定していない。むしろ「一芸ある人」に関しては起用する度量の広さを持っていた(注24)。先に触れたように快慶自身、おそらくは重源の影響に端を発する浄土教的な信仰を持っていた。浄土信仰の人脈の連続性を考慮すれば、それは初期浄土教団とも連なりえただろう。彼は「其身浄行也、尤足清撰欺J(長谷寺再興縁起)と評されるような性格を持っていたが、何より「当世之上手J(尋尊大僧正記)であった。先述の(c)や(e)といった、慈円による快慶の起用についても、先に述べたような浄土教団に通じるような人々を介してのつながりを契機としつつ、快慶の「一芸Jを評価してのことだったのではなかろうかと推測される。契機が何であれ、ひとたび慶派の活動が天台の人脈に入り込めば、場所的にも像種にしても活動の幅を広げてゆく可能性はあっただろう。三尺阿弥陀以外(注25)でも、鎌倉初頭を代表する狛犬(重要文化財)等を伝える栗東市大宝神社や、大宝神社の別当寺で13世紀第2四半期ごろの阿弥陀如来坐像の伝来した同市悌眼寺が青蓮院領「繕村保」に比定される栗東市総周辺にあり、岡市東方山安養寺の薬師三尊像が伝来した土地がやはり青蓮院領であった「砥山庄jに近接するなど、青蓮院を通しての関係が一定程度機能していた可能性をうかがわせる例もある。しかしそんな中でも、滋賀県下に現存する慶派風の作品中に安阿弥様を継承する三尺阿弥陀立像がかなり多いことは、快慶周辺の造像活動を支えた母体がどの辺にあったのかをうかがわせる。快慶周辺と青蓮院門跡周辺との接点として、天台に近い立場にあった初期浄土教団にかかわる人脈が機能していたことはこのような点からも認められるだろうし、またこのこと-467-
元のページ ../index.html#477