鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
478/592

注(4) 『門葉記』巻第2・織盛光法2、『華頂要略』門主伝第3(5) 『門葉記J巻第2・蛾盛光法2(6)快慶の作に彦根市円常寺像、快慶の弟子行快の作に西浅井町阿弥陀寺像、信楽町玉桂寺像があ(1) したがって、ここに取り上げた作品中には、現段階では未見のものも含まれていることをおことわりしておきたい。(2) 宇野茂樹「鎌倉時代初期の延暦寺における仏師動静J『史迩と美術.!465、1976年(3) 岩田茂樹『大津の文化財J所収解説、大津市教育委員会、1998年。同「志賀・上品寺の菩薩立像(二躯)J『MUSEUM.I559、1999年り、またかなり快慶に近い作として、志賀町西岸寺、大津市善通寺、大津市華階寺の各{象などがある。ほかにも浅井町大吉寺、多賀町安養寺、湖東町玉宝院、栗東市永正寺、栗東市正徳寺、栗東市新善光寺、栗東市敬恩寺、大津市西福寺、大津市今然寺、大津市実蔵坊の各像などが挙げられ、調査を進めてゆけばさらに増えると予測される。もっともこのうちには、玉桂寺像のようにが天台における快慶周辺の活動を性格づけているとも見ることができる。おわりに快慶は、西山往生院周辺をめぐる初期浄土教団と青蓮院門跡の交流を機に天台への進出の足がかりをつかんだころ、ほぼ平行して、建保6年(1218)法然門下の念仏房の働きによって嵯峨清涼寺釈迦如来坐像の台座の修理を行っている(注26)。こういった活動により、この時期に天台や天台系の浄土教団とのかかわりを深めたことが、のちの快慶やその高弟行快の大報恩寺での造像や、行快の阿弥陀寺像、玉桂寺像の造像などの活動につながっていったと思われる。また西山から地理的に近い石清水八幡宮への進出が見られるのもこの時期であった(注27)。このように見ると、重源亡き後の1200年代後半から10年代にかけての快慶の西山周辺での動向は、天台との関わりだけでなく、快慶の活動の展開という観点からも、ひとつの大きな結節点となっていたように思われる。もっとも、近江に残る慶派風の作品のすべてを、このような快慶周辺と青蓮院門跡周辺との関係や、浄土教的な側面から括るわけにはいかない。大津市寂光寺の菩薩坐像などのように、快慶よりむしろ運慶らの作風の系譜を引くと思われるものも存在するし、また例えば湛慶が二親のために造像した丈六阿弥陀坐像を、むしろ青蓮院より梶井門跡と関わりの深い大原来迎院に安置している例(「湛慶注進状」(来迎院文書))などもある。天台と慶派とのつながりには、複数のチャンネルがあったことがうかがえる面もあり、これらについては今後検討を進めてゆきたい。468

元のページ  ../index.html#478

このブックを見る