鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(8) 図録『近江の真宗文化』栗東歴史民俗博物館、1997年(16)前掲(注4)参照年他からの移動が明らかで天台以外の背景を考えられるものも含まれている。てに信のおけるものではないが、真宗寺院となった後に関しては、一定の真実を踏まえていると見てよいだろう。真宗寺院において既存の仏像を本尊に転用した例については、張洋一「康雲銘の阿弥陀如来立像について浄土真宗寺院の歴史的ー側面」『仏教芸術j201、1992年にみえる。ただし永正寺像は、現状において銘文等はみとめられない。2000年1927年等を参照。同青木淳『遺迎院阿弥陀知来像像内納入品資料』(白文研叢書第19集)、国際日本文化研究センタ一、1999年次郎「源空の門下について」『源空とその門下』法蔵館、1985年、所収同図録『京都永観堂禅林寺の名宝』京都・永観堂禅林寺の名宝展図録作成委員会、1996年同青木(注13)前掲書凶菊地勇次郎「浄土宗教団の形成と発展j『源空とその門下J法蔵館、1985年、所収。同(注19)前掲書。『徒然草』226段凶作例としては大津市理性院の如意輪観音坐像、同龍珠院の釈迦如来坐像、草津市正光寺の伝観音菩薩坐像、土山町清涼寺の釈迦如来坐像、蒲生町慶岸寺の阿弥陀如来坐像、近江八幡市長命寺の地蔵菩薩立像、栗東市高年寺聖観音立像、同松源院の毘沙門天立像などが挙げられる。同三宅(注12)前掲書開山本勉「石清水八幡宮検校法印宗j青の『仏像目録』と院派仏師JWMUSEUMj 376、1982年。拙稿「湛慶世代の作風展開について京都正法寺(八角堂)阿弥陀如来坐像、京都西国寺阿弥陀如来坐像を中心にj『研究紀要』(京都大学文学部編)22、2001年(7) 建長5年(1253)「近衛家所領目録」(『鎌倉遺文』7631)(9) 当該部分を抜き出すと「元和二年三月十五日来一人異僧授阿弥陀尊像去不知行庭是当応僧哉尊躯者則北嶺慈覚大師御彫刻之霊仏也VJ嘗寺以有因縁安置之為本尊失」。この文書は必ずしもすべ(10) 津田徹英「書写山円教寺根本堂伝来滋賀・舎那院蔵釈迦如来坐像をめぐって」『仏教芸術j250、(11) 寺史については、『吾妻鏡』文治3年2月9日条、『東浅井郡志』黒田惟信編、東浅井郡教育会、(12) 三宅久雄「鎌倉時代の浄土宗教団における造像に関する研究」『鹿島美術財団年報』第4号、1987(14) 青木(注13)前掲書(15) 光森正士「伊豆御山常行堂とその本尊について」『大和文化研究』第13巻9号、1968年。菊地勇(1カ前掲(注5)参照(18) 多賀宗隼『慈国の研究』吉川弘文館、1980年同菊地勇次郎「西山義の成立J『源空とその門下』法蔵館、1985年、所収附『山機記』治承3年(1179)4月27日条など。菊地(注19)前掲書凶『華頂要因告j門主伝第6-469-

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