⑮ 19世紀ヨー口ッパにおける平戸・三川内焼の受容と現状一一ジャポニスムの視点から一一一研究者:長崎県政策調整局都市再整備推進課博物館建設準備班学芸員1 .はじめに19世紀は、日本の貿易陶磁にとって第二の輸出期である。第一期は、伊万里焼(有田窯)が国際市場に日本の磁器として始めてのデピ、ユーを飾った17世紀後半から、オランダ東インド会社による公式の輸出が終了する18世紀中頃までといえる。当時輸出された柿右衛門様式や古伊万里様式の有田窯製品が一世を風鹿し、ヨーロッパ諸窯で盛んに模倣されたことはすでに周知の事実となっている(注1)。一方19世紀になると、万国博覧会の開催を契機に日本の美術工芸品が盛んに海を越え、新たな刺激として欧米に受けいれられることとなった。陶磁器もその例外ではなく、第二の本格的な輸出期を迎えるに至ったのである。当時輸出された陶磁器としては、もっぱら有田、瀬戸、薩摩、九谷で焼成されたものや東京、横浜、名古屋で絵付をしたものが挙げられ、ジヤボニスムとの関連で語られることが多い(注2)。ところが、同じ頃に輸出されていた三川内焼に関しては、言及される機会が極端に少なく、日本の貿易陶磁史において正当な評価が与えられていないのが現状である。しかし、当時の三川内焼の輸出量は決して少なかったわけでもなく(注3)、国内外でそれほど低く評価されていたわけでもない(注4)。それではなぜ、現在、19世紀の貿易陶磁について論じる際に三川内焼に対する認識が低いのであろうか。そして、実際はどんな三川内焼が輸出され受容されていったのであろうか。本稿では、主にヨーロッパの三川内焼の所在調査および、生産地である三川内地区や長崎県に残されている史料などをもとに、受容の背景となったジヤボニスムの視点から19世紀輸出向け三川内焼の様相を明らかにしたい。まず、考察を進める前に、平戸・三川内焼の呼称について確認をしておきたい。本稿で対象とする焼物は、現在の長崎県佐世保市の南東部に位置する三川内地区で19世紀に生産された磁器製品である。これらは江戸時代、有田や波佐見といった他の肥前諸窯の製品と同様に、積出港の名で伊万里焼と呼ばれ流通していた(注5)。ょうやく明治時代になって、生産地の名前で「三川内焼」と呼ばれることが一般化する。2.平戸・三川内焼の呼称について松下久子-481-
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