鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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3.三川内焼の輸出とその背景筆者はこのような事情をふまえ、通常、平戸藩の保護・管理下にあった江戸時代の製品を「平戸焼」、明治以降の製品を「三川内焼」というふうに時代区分で呼び分けているが、本稿では、江戸から明治にかけて三川内で作られた製品について論じるため、以下、生産地名による「三川内焼」という呼称、で統ーしたい。〈輸出体制の整備〉19世紀の三川内焼は、肥前諸窯の歯車のーっとしての存在から脱却すべく、海外貿易へ独自の道を切り聞き始めた。その晴矢として文政13年(1830)、平戸藩は平戸焼物産会社を設立し、その営業所である平戸焼物産会所を長崎に開設した。その目的は、オランダとの直接的な取引きである(注6)。その組織的取り組みが功を奏し、弘化〜嘉永(1844-1854)年間の頃には、諸方からの注文が増え(注7)、製造が盛んにおこなわれることとなった(注8)。そして、安政期(18541860)はオランダ貿易を意識し、窯焼、赤絵付、売捌きについて藩による統制がおこなわれた(注9)。明治4年(1871)の廃藩置県により、藩の保護・統制がなくなると、三川内焼も民間経営の窯としての新たな歩みが始まった。まず、同年、平戸焼物産会社の経営を藩から譲りうけた郡令古川澄二が、満宝山商舗を設立(注10)。その後、豊島政治が経営を引き継いで輸出が継続され、「満宝山枝栄造」「平戸産枝栄造」の銘を付けた薄手の受皿付碗などが数多く送りだされた。長崎での貿易の最盛期は、明治10年(1877)から同14年(1878)にかけてであり、その後神戸、横浜に進出し、海外への販路を拡張することとなった。明治16.17年頃からは、さらに国内外の人々に賞用されるようになり、需要が特に増加した。その頃、三川内山全体の生産量のうち7割が輸出用、3割が圏内向であり輸出への傾倒ぶりがうかがえる(注11)。この1870年代後半の三川内焼の活況は、ウィーン万博が開催された、1873年から1880年頃にかけて国産の輸出陶磁に対する需要が高まりを見せた状況(注12)と符合している。つまり、この頃ピークを迎えたジヤボニスムを背景に、三川内焼を含む国産陶磁器が需要を拡大したことがうかがえるのである。また、明治21年(1888)陶磁器の製造販売をおこなう製陶会社設立(注13)、明治27年(1894)磁器製造業組合設立(注14)、明治35年(1902)三川内陶磁器合資会社設立(注15)など、三川内焼の製造・販売における組織化が進んだ。明治32年(1899)には、三川内の有志と県費の補助を受け問磁器意匠伝習所が開設-482-

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