鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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された(注16)。陶画科と製型科の2科があり、東京美術学校から図案科の教師を招聴するなど、特に意匠教育に力が注がれた。これは、明治30年代における日本陶磁の不振と意匠面の改革の必要性を背景に、瀬戸岡器学校での図案改良の取組みゃ、明治35年開校の京都高等工芸学校における図案教育が行われるといった(注17)、他の輸出陶磁器の生産地と奇しくも同じ姿勢で磁器製造に取り組んでいたことが指摘できる。く輸出の時期と製品〉さて、三川内焼は、いつごろどのような製品が輸出されていたのであろうか。輸出の時期によって、製品の特徴に変化が見られるようである。『三川内窯業沿革史Jには、輸出の開始当初からオランダ人に好評であった薄手コーヒー器の製造が進められたとあり(注18)、輸出の初期は、薄手のコーヒー碗のセットなど、小型で薄手の製品が好まれていたようである。そして天保8年(1837)には、池田安次郎が「紙のような」と形容されるさらに薄手の磁器製作に成功した(注19)。これが、卵殻手と呼ばれる極薄い素地の製品であり〔図1〕、1880年に刊行されたA.W.フランクス著『JapanesePottery jにも三川内焼の代表的な製品のーっとして紹介されている(注20)。また、オランダのライデン国立民族学博物館には、出島のオランダ商館医として来日したシーボルト(17961866)が持ち帰った三川内焼が所蔵されている。それらは、一般的な商業ルートで入手したものと性格が少し異なるかもしれないが、彼の著書『日本Jの中に挿図されている蓮の葉形水滴〔図2〕や栗鼠置物、気球船形水注などがあり、19世紀中頃にはこのような造形的に工夫を凝らした製品が作られていたことがわかる。明治中期になると、さらに造形的に凝ったものが多くなる。その代表的な製品に、透彫の装飾を施した香炉の一群がある〔図3〕。これは、口石丈之介が明治17年(1884)に透彫香炉を完成したことにはじまる(注21)。続いて明治22年(1889)5月には彼の透彫製品が皇室に献上され(注22)、明治23年(1890)、2段と3段の香炉を上野博覧会に出品。これを外国人が買上げ、以後外国人向けに注文生産、販売をおこなうようになった(注23)。透彫の香炉は、これ以降国内外に広まることになったと考えられる。もう一つ三川内焼の特徴として挙げられるものに、彫塑的な装飾がある。その最も代表的なデザインが、龍や獅子などの彫像を貼り付けたものである。明治26年(1893)シカゴ万博では、龍の加飾が施された壷が、高度な技術と繊細な美しさを評価され受賞している(注24)。また、同様の加飾が施された製品が、ヴイクトリア・アンド・ア-483-

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