鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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5.まとめまた、三川内の得意とする繊細な細工により、龍や菊花など、彫塑的なアイテムを器に貼付ける加飾法〔図11〕、竹ひごで編上げたような仕上りを見せる透彫装飾〔図12〕、白磁の素地に幾何学文様を規則正しく刻み込んで装飾する方法等も見られる〔図13〕。三川内焼の真骨頂ともいえるこれらの繊細な細工は、熊本県で産出する天草陶石と現在の長崎県佐世保市に位置する針尾島から産出する三ツ昔間石を調合することによってはじめて可能になったという。薄く延び、腰の強い特徴をもっその粘土によって作られた細工物は、国内における同時代の他産地を圧倒する技術であった。三川内焼の関連図書には、必ずこの種の繊細な細工が施された製品が代表的作品として紹介されていることからもうかがえるように、高度な加飾技術が三川内焼を特徴付けていたことがわかる(注35)。ここまで、19世紀における三川内焼の輸出の背景とその実態、そして実際に輸出された製品についての考察を進めてきた。国産陶磁器として第二の輸出期を迎えた19世紀の三川内では、平戸藩や三川内の有志たちによって輸出が推し進められた。その輸出品としては、1830年からしばらくの聞は碗類を中心とする薄手で小型の製品が主流を占め、19世紀中頃には造形的に凝った作りのものが多くなり、1884年には透彫香炉の製作技術が完成し、さらに彫塑的な加飾法が盛んになるという変遷をつかむことができた。また、文様や装飾からは、ヨーロッパのジヤボニスムへ多大な影響を与えたというよりはむしろ、すでに成熟していた市場の好みつまりジャポニスムに合わせた意匠の製品づくりが主に行われたことが推察できた。しかし、ここに興味深い資料がある。〔図14〕は、〈容器「日本の怪物の頭部」〉と題されたエミール・ガレのガラス作品である。そして、〔図15〕は、三川内焼の〈白磁獅子形手倍〉である。非常によく似たこの二つの細部の作りを比較すると、より細かく具体的に作り込んでいる三川内焼の方が本歌と思われる。製作年代も前者が187678年となっているのに対し、後者は19世紀中頃の作と考えられている。このことは、三川内焼がジヤボニスムの影響をうけた製品づくりだけではなく、ジャポニスムを指向するヨーロッパの工芸へ直接的な影響を与えたという可能性を示唆していると思われる。以上のことから19世紀の三川内焼は、日本の貿易陶磁のーっとして、看過できない存在であり、器形や意匠面においてジャポニスム市場を意識した製器が作られたとい486

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