鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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欠け、中国の実例から参照した風景表現を各所で実験的に使うことに徹底し、新しい様式を確立する段階には至っていない。さてこれらの状況を考慮した上で改めて1307年制作のビールーニー写本の風景表現を概観すると、13世紀メソポタミア絵画で著しい装飾的性格は完全に失せ、モーガン写本で見られた表現方法を踏襲しつつも、新しく中国からもたらされた風景様式に翻弄されることなく、独自の解釈で自然描写を展開している。恐らく細密画家にとっての難関は、人物をいかに風景に組み込むかという問題であったと思われる。以下、個別に風景要素を見ていこう。この写本の風景設定には、中国の山水画に依拠するような雄大に連なる山岳をみることはないが、岩の表現は絶壁から弧岩まで非常にバラエティに富み、奥行き感や高さを表現するのに多用されている。「アフリマンの誘惑」(f.48v)〔図3〕では、登場人物を取り囲む様に丘陵が広がり、色使いなどにおいて独自性を強めている。同様の輪郭線や雑草の配し方などはモーガン写本にも見られ(注12)、イル・ハーン朝のアトリエ内で、流行っていたと想像される。この岩壁表現の元をたどれば、同時代の中国絵画の山岳表現〔図4〕から着想を得たと思われるが、この場面設定に相応に変形されている。一方、前景右に置かれた岩は、その立体感表現がややぎこちないものの、その鋭い輪郭線、特に背後に植物を供えている光景は、元時代の竹石図〔図5〕を思い起こさせる。この岩の意義を考えるに、絶壁の頂辺と対角線上に置かれ、構成上重要な役割を果たしているとの肯定的な解釈も十分可能であろう(注13)。木は比較的地味な存在であるが、『カリーラとデイムナ』の例と比べると非常に写実的で、幹のこぶやふしを細部にわたって表現している。これらの改善点を中国絵画に帰することは無理で、はないが、特定の出所を指摘することは難しい。例えば図4のような伝統的な巻物形体の絵画の他、容易に入手できたと思われる木版画などから取られた可能性も考えられる(注14)oモーガン写本〔図2〕や1295年から1303年の聞に北ジヤジーラまたはアナトリア地域で製作されたとされるカズウィーニーの『万物の驚異』(ロンドン、大英図書館、Or.14140) (注15)でも木が生き生きと描かれているが、上手く風景に溶け込めず孤立しているのに比べ、ビールーニー写本では人物や他の風景要素と上手く調和を保っている点で特出している。主に遠近感を出すのに利用されているのが草である。例えば「インドの秋分J(f. 129 v)〔図6〕の場面で見られる様に、草を互い違いに配し、各段に人物を配して広がりを出す手法は、明らかにメソポタミア絵画で見られる水平一列に配す草の表現とは一線を画している。草をまばらに配して空間を仕切る方法は、中国の実例、特に木版画42

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