伊hJV司iA.センゲツォヒオ(191786)、A.ツェレンフー(1931) B.ロブサル(1916−)、B.ツェルマー(1927-)Ts.ダヴァーフー(1944-2001)、D.ウランチメグ(1947-)このうち、ルーニャ、ツェルマ一、ウランチメグという3人の女性作家については、現地調査時に、話を聞くことができたので(注6)、ここでは彼女らそれぞれの代表作と思われる3点の作例で、表現や制作背景を比較し、考察を加えてみたい。作家によると、主にデザインを夫が担当し、縫製を妻が担当したという。いずれも、もともと夫が著名な画家であり、妻は刺繍家として活動していた。刺繍家の仕事には、単なる刺繍作品だけでなく、ソ連や中国の政治家がモンゴルを訪れた際に記念品として贈呈する肖像画の制作も含まれていた。最も早くにアップリケの制作を始めたのは、ヤダムスレン・ルーニャ夫妻で、1955年頃から制作を始めたという。夫のヤダムスレンは、モンゴルで最初の留学生として、1939年ソ連へと渡った画家である。しかし、第2次世界大戦の勃発により、留学生活2年で帰国を余儀なくされた。ヤダムスレンは、少年時代、僧となるべく寺院の学校に入っていた。当時、教育を受ける場合は、こうした寺院に入るしか術はなく、そこでは伝統的な仏教絵画の描き方が教えられていた。その後、ヤダムスレンは油彩画を学んだ第l世代の画家として、また教師として活躍していくが、油彩画ばかりがもてはやされ、伝統的なモンゴル画(注7)が廃れていくことを次第に案じるようになり、1950年代後半より、モンゴル画復興の活動を始めた。一方、妻のルーニャは幼い頃から刺繍を学んだが、本格的に作品を制作しだしたのはヤダムスレンとの結婚後である。彼らの代表作、「多くの民族」〔図l〕は、1969年の作で、他のアップリケ作品と比べると比較的初期の作品であり、仏教絵画の様式を顕著に伝える。まず、中心の蓮華座の上に描かれているのは、昇る朝日に向かつて馬と人物が駆けている、モンゴルの紋章である。その背景には、段々と連なる山と図案化された雲がたなびく空がある。画面右上と左上には、それぞれ日、月が描かれている。紋章の前には、老若男女の人々が集まっている。これはモンゴル圏内で生活する様々な民族を表現している。彼らは、ちょうど仏尊が持物を持つように、縁起が良いとされるミルクやチーズなどの白い食べ物を持ち、ハダックという相手に敬意を表すために贈る綿布をもっ。ザナパザル美術館所蔵のタンカ「クンダリー」〔図2〕と比較すると、中尊、左右対称の構図、図案化された雲や山、装飾的な花など画面構成が非常に近似しており、仏画からの直接的な引用が認められる。ロブサル、ツェルマ一夫妻の代表作「私たちの母国j〔図3〕(1971年作)は、労働
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