⑩ 日中戦争下における中国美術家にとっての政治と美術歴史資料から見た抵抗と対日協力の諸相一一研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程一、はじめに一般に抗日戦争時期とは、北京郊外で慮溝橋事件の勃発した1937年7月7日から、ポツダム宣言受諾による日本敗戦の1945年8月15日までを指す。日本は開戦間もなく1937年の12月に、北平で北支那方面軍により「健備政権」中華民国臨時政府を発足させ、継いで中支那方面軍によって南京を中心とした同様の「健偏政権」中華民国維新政府を1938年3月に成立させた。更に、1940年の3月には「漢好jの圧兆銘が南京で中華民国国民政府を日本の援助下に創設し、これらの政権と統ーを図った。日中戦争時期の中国は、大きく分けて国民党支配地域(蒋介石政権)の「大後方」と、中国共産党支配地域の「辺区」(解放区)、そして日本の影響下にある「論陥区」に分けて考えられる。重慶は「大後方」であり、延安は「辺区」、北平、南京などは「論陥区」となった。上海は太平洋戦争開始までは、英米仏などの支配下の租界における抗日運動が一部可能であったため「孤島」と呼ばれていたが、太平洋戦争開始後は直ちに日本が占領し、その後は正兆銘の中華民国国民政府の支配地域となった。香港も、1941年12月以降は日本の占領下となった。以下の美術家は、それぞれ「論陥区」(斉白石・蒋兆和・陳抱一・劉海粟)や「大後方」(徐悲鴻)に生活していた人物であり、本稿は彼らの日中戦争下での活動の一端を、当時の資料に則して掘り起こしたものである。二、北京の画家斉白石(1863〜1957)は湖南湘浬の貧しい家に生れ、「大工から画家になった」と中国ではよく知られている。1927年、国立北平塞術専門学校国画教員に迎えられ、1937年の日中戦争が勃発すると、教授を辞め、自宅にこもり、1945年の日本の敗戦まで外部と接触を避けたという。斉白石は1949年以後の新政府から「人民塞術家」の称号を贈られ、その賞賛は頂点を迎えた。( 1) 斉白石陸偉栄(申請名古川健一)522
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