鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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健偏政権下の北京における斉白石の行動について「日本人とは会わなかったjとか、「日本人には絵を売らなかった」という“伝説”が常識となっている(注1)。斉白石活動年表1937年、7月7日、慮溝橋事件勃発。12月、日本軍は華北地区で「中華民国臨時政府」成立。北京陥落後、北京塞術学院、京華美術専門学校を辞して、自宅にこもる。(『斉白石自述』)臨時政府({鬼偏政権)の「新民会j幹部胡漢朔(部長)らに急接近。日本人のため多数の築刻を作った。(『打倒斉白石』)1938年、日本で個展を聞く。柴田井四郎・荒木らの日本人のため豪刻を作る。日本の「美術発行所」に依頼し、代理販売の「斉白石老築刻取次Jの広告を掲示〔図l〕、「印材の外一宇十固j。(『打倒斉白石』)1939年、臨時政府(健偏政権)の招きを拒否、玄関に「停止見客」を貼る。画作の予約を受けず印刻の依頼を拒否。(『斉白石自述』)1940年、1月、臨時政府(健備政権)の代りに「華北政務委員会」が設置される。「画は役人に売らない」(「画不売与官家」)と告示。(『斉白石自述』)1941年、12月太平洋戦争勃発。1943年、「華北政務委員会」(健備政権)の「留日同学会季刊」目次に作品2点掲載。1944年(秋?)蒋兆和から紹介状をもらった長広敏雄を自宅に迎え接待。(『北京の画家たち』)斉白石の「自述Jには、次のように書かれている。「白丁丑年北平論陥後、這三年間、我深居簡出、f艮少与人往来、但是登我門求見的人、非常之多。敵偽的大小頭子、也有不少来扶我的、請我吃飯、送我東西、眼我粒交情、図接近、甚至要求我眼他例ー起照相、或是叫我去参加什座盛典、我栂是椀辞拒絶、不出大門一歩。他{門的任何圏套、都是柾費心機。我’|由他{門糾纏不休、慨得眼他伺多説廃話、干脆在大門上貼一張紙条、写了十二個大字:『白石老人心病復作、停止見客J」(『白石老人自述』山東画報出版社、2000年)。(下線筆者)「自述jによると、健偏政権下における彼の活動は、漢好や権力者(当時は日本人及ぴ健偏政権の幹部)に会わず、意識的に接触を避けた。しかし、長広敏雄『北京の画家たち』(全国書房、昭和21年)には、戦時中84歳の斉白石の家を訪問して親しく筆談-523-

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