鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(2) 蒋兆和を交わしたと書かれている。「斉白石先生は枯れきった老董家である。私は蒋兆和君に紹介状をもらってこの老人を訪ねた。ぶっつけに訪問したのだが別に嫌がられることもなく曾ってくれた…。老先生は耳が遠いので、例の背の低い男が私の来意や質問やを一々老先生にとりつぐ。老先生枯れ木のやうな丈の高い身瞳をぽつぽつ動かして、筆をとり私の手帳に筆答するのである」(下線筆者)これは、当時の記録であり後年の「白述」とは相反する記述である。・『中国留日同学会季干lj』{鬼備政権下で発行された『中国留日同学会季刊』(1943年第3号)の目次に斉白石の作品(左右二点、左の一点は蟹、右の一点は魚)が掲載される〔図2〕。執筆者は親日派の周作人、銭稲孫、張我軍のほか、軍部の実力者・王裡唐もいる。1937年12月、日本軍は華北地区で「中華民国臨時政府」(健偏政権)を発足させた。臨時政府は日本軍の指揮に置かれ、行政面では行政委員会の下に行政・治安・教育・救災各部が置かれた。臨時政府(健備政権)が樹立した10日後、「新民会」がつくられた。新民会は政府翼賛の民衆教化団体で、「無党無派」の民衆団体を自称したが、実際は臨時政府を擁護し中国侵略政策の宣伝と占領地区の治安強化の目的があった。目次に飾られた斉白石の二点の作品は、横長の形で目次にひ。ったりの構図であり、雑誌の注文に応じた作品と考えられる。なお、この『中国留日同学会季刊』には蒋兆和も作品を提供している。蒋兆和(1904〜1986)、原名は寓綬のち兆和と改めた。四川j慮州に生れた。1920年上海に出て、広告画(看板)を描き、服飾デザインの仕事をしながら、西洋画を習った。1927年徐悲鴻に認められ、美術学校を出たこともない彼が翌年南京国立中央大学図案学部の教員に招かれた。1930年〜32年は上海美術専科学校教授をつとめた。1935年北京の画塾で教えたあと、四川に戻った。1937年に再び北京に行くが、間もなく慮溝橋事件が勃発する。北京で平塞術専科学校教授をつとめた。蒋兆和活動年表524

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