1937年、北京に行く。(蒋兆和「我和『流民図』」、『文化史料』第2輯)臨時政府(健備政権)による北京妻術専科学校が成立、招かれて講師を務める。(蒋兆和「我和『流民図』」、『文化史料』第2輯)作品:「朱門酒肉臭」「老乞婦J(林木「20世紀中国画研究」)1938年、作品:「流浪的小子」「売子図J、水墨デッサン「与阿Q像」を制作。(林木『20世紀中国画研究』)1939年、作品:「少女」(林木『20世紀中国画研究』)1940年、春、1937-1940にかけて描いた「群像図Jを画集として燕京大学長・スチュアートが出版する。(土方定一「蒋兆和と現代の支那美術」)1941年、作品:「骨肉分離」(林木『20世紀中国画研究』)1942年、年初、「流民図」構想画(草稿)に手をつける。(蒋兆和「我和『流民図』」、『文化史料』第2輯)東京で個展。別府で療養中の殿同({鬼備政権「新民会」の幹部)に会う。のち股同から制作経費をもらう。(蒋兆和「我和『流民図J」、『文化史料J第2輯)1943年、作品:「流民図jを制作。(林木『20世紀中国画研究』)秋、「流民図J完成。(蒋兆和「我和『流民図JJ、『文化史料』第2輯)『留日同学会季刊』に作品掲載。1944年、春、「流民図J完成、北京・上海で展覧する。(『北京の画家たち』)2月、「群像図jを北京太廟で展示。(土方定一「蒋兆和と現代の支那美術」)秋、長広敏雄と会う。デッサンを長広に見せる。(『北京の画家たち』)蒋兆和は「我和『流民図』」(『文化史料J第2輯、1981年)で、日本の個展は「被迫J(強迫)だ、ったとし、背景についてふれず、はっきりした時期も記さない。長広敏雄『北京の画家たち』には「蒋兆和は黄復生という人物とともに日本に来遊し、東京・高島屋で個展を聞き、大いに称賛を博したjと記述する。蒋兆和の日中戦争期の活動には「不明」な点が多い。もっとも注目されているのは、作品の「流民図」である。・「流民図jについて「流民図」(群像図)〔図3〕は、当時美術評論家の土方定ーによって「近代的リアリズムJを大きく評価された。今日では「抗日絵画」の「流民図」の作者として“英雄視”されている。中国では疑問の多い蒋兆和の過去の行動に目をつむり、彼の「抗日絵画」を政治的宣伝に利用しているとも考えられる。現在まで、その効果のせいか「流-525-
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