民図」の評価としては「抗日絵画Jが定着しており、最近の日本でも以下のような記述が見られる。「彼(蒋兆和)の代表作は「流民図」という大作である。伝統の長巻の形式を用いて、中日戦争の砲火の下で苦しむ中国民衆を描き、民族の歴史のー頁とした。」(高美慶「近代の中国絵画伝統の変革」、『世界美術大全集東洋編・清』小学館、蒋兆和の「流民図」はいったいどのような状況下で作られたか。蒋兆和は、健偏政権下に来日して個展を開催、九州・別府で病気療養中の「漢好」段同と知り合う。この段同が「流民図Jの経費を出して大作の準備に取り掛かった。「自述」は文革以後の記述ではあるが、戦前の段同との関係や日本での個展に就いて多くを語らない。「我時刻在思索着如何画出ー幅集中表現諭陥区人民遭受日冠焼殺虜掠的歴史長巻、由之産生了創作「流民図」的強烈動機。J(「我和『流民図』」『文化史料』第2輯、1981年、132頁)(下線筆者)ここには「論陥区(日本占領下)の人民が日冠から受けた焼殺虜掠の歴史長巻」と書かれている。実際に彼は「日冠」と書いた日本で個展をし、健偏政権の段同から経費を貰った事実がある。殿同は、1889年江蘇省江陰県に生まれ、日本に留学。陸軍通信学校を卒業した。帰国後実業界に入札1923年山東魯大公司の支配人となった。1933年北平政務整理委員会(健偏政権一筆者)が成立するとこれに参加、北寧鉄路局長に任命され満支通軍問題の解決にあたる。中華民国臨時政府(健備政権筆者)が発足すると建設総署長官の要職につき、第一線に登場した(注2)。1940年1月、「華北政務委員会jが設置され、段同は建設総署長官になった。段同は、保価政権のなかで極めて重要なポストに居たのである。こうした人物から、「反目的な絵画」(倫陥区人民遭受日冠焼殺虜掠的歴史長巻)を制作する経費を貰っていたということは、常識的に考えにくい。段同は、蒋兆和にとって重要なパトロンであった。作品は1943年10月に完成、輿論を考慮して「群像図Jというテーマで展示に出した2000年、154頁)526
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