鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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が、展示した初日に当局に中止させられた(この時点で股同は、亡くなっていた)。ところで、四川美術学院(現在は四川大学霊芸術学院)の林木氏はその『20世紀中国画研究J(広西美術出版社、2000年)で、民国32年(1943)10月30日の『学生新聞Jの記事を掲載するが、これによると、展覧主催者には新民会・中央総会も加わっていた。「新民会jのような組織が、自らの行動を批判する「流民図jを、わさわざ展示作品とするであろうか。上記『学生新聞』〔図4〕は、日本での展示会から北京に帰った蒋兆和が、新民会の幹部・殿同から制作の意図を受けたとはっきり書く。段同は間もなく他界したため、別の新民会幹部の援助を受けて仕上げたという。同紙には当時の蒋兆和による「我的画展略述jがあり、そこで蒋兆和は、「北京帰来、於某日股先生与口小石先生商議擬請北京之丈塞界諸公一束、所以在席間段先生対雲術有所鼓励、並嘱都人擬絵ー当代流民図、以表示在現在、中国民衆生活之痛苦、而企望早目的和平、更希望重慶口蒋先生有所口解口此口用口深遠、…」と述べている(注3)。また、これに近い記述は本人の「我和『流民図』」にも見られる。「体好好画、画好了可以給蒋介石看看。」つまり、作品を重慶の蒋介石に見せることも前提に描いたのである。当然、蒋介石治下の悲惨さを宣伝する目的を持っていたと考えるべきであろう(しかし殿同がまもなく死去したため、どういう意図で制作されたかは推測に頼る以外にない)。一方、当時蒋兆和に接触した土方定一(注4)は、撤去された作品を作家自宅で見せてもらい、「日本人は誤解していた」と作家本人から聴いたという(「蒋兆和と現代支那美術J(『美術』第3巻第2号))。この一言は、「私の描いたのは『国民党統治地区』(大後方)の民衆の悲惨を描いたもので、その悲惨さを蒋介石に見せて早く和平に応じよと訴えるつもりだ、ったjーーだから、日本人が反援するのは無用の誤解ーーと解釈できる。即ち、「流民図jは「大後方で苦しむ中国民衆」の姿と考えられる。また、作品自体の内容に就いて見ると「我和『流民図』」によれば、「我当即設法去上海、蘇州一帯城鎮農村、親自了解観察南方論陥区人民的生活情況、捜集各方面的素材、耗時両月有余、回来時銭己全部用光。」(134頁)-527-

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