鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(1)劉海粟即ち「上海、蘇州一帯城鎮農村」でスケッチをしたと書いているが、「流民図」には北方の「櫨馬」ゃ「北方の服装をした人々」が多数登場し、「大後方」とするには不自然である。以上の抗日戦時期の資料を総合すると、蒋兆和は、日本との関係から殿同をパトロンにして、その意図を受けて北京でスケッチをして「流民図」を制作したが、その思惑と反して公開当日に展覧を禁止された。本来、作者は健偏政権の意図に沿って「大後方」(南方)の難民の悲惨な状況を示す「流民図」を制作し、日本と蒋介石政権の「和平工作」にも役立てようとの野心もあったらしい。但し、その意図に反して作品が「反目的」と誤解されたことが、後々の作者の運命を大きく左右することとなった。パトロンの段同が亡くなっており、また当局に展示を禁止された絵画作品であることから、建国後には彼は「抗日」のため作品を描いていたとされたのである。反論する人は既に亡くなっている。しかも、幸運なことに、彼がスケッチしたのは華北の風俗であったため、この作品が「倫陥区」のものにされることに不自然さはなかった。蒋兆和は20年代に徐悲鴻と知り合い(1927年)、才能を徐悲鴻に認められた。戦後、北平喜術専科学校校長に就任した徐悲鴻からは、「論陥区」で活動していた「漢好画家」と疑惑の目で見られ、学校に招聴されなかった。ところが友人の斡旋で翌年になって会見し、展示禁止の「流民図」を逆に利用することで「誤解」を解き、その後首尾良く中央美術学院の教授になったのである。いちいち挙げないが蒋兆和の「我和『流民図』」には、長広敏雄や土方定ーらが当時書いた証言との食違いが冒頭から多数見られる。三、上海の画家劉海粟(1896〜1994)、原名は葉、九。字は季芳。江蘇省武進の人。「富家子弟Jと伝えられる。亡くなってから「政敵」でもあった徐悲鴻の側から「彼は漢好だ、った」と過去が持ち出されている。「証拠」は当時刊行された一部の新聞記事で、詳しい内容は不明であった。近年の「論文集」にも詳細な論考はなく、1930年代特に日中戦争時期の資料に言及がない。1909年、劉海粟は14歳で上海に出て上海布景図画伝習所で西洋画を学んだ、。僅か二年後、烏始光、張幸光と上海図画美術院(後の上海美術専科学校)を創設、劉は自ら校長となった。16歳の学生が校長である。これが彼の最初の「過大宣伝」とも考えられる。また裸体モデルを使い「塞術叛徒」と呼ばれて注目を浴びた(注5)。1920年代-528-

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