7月、陳公博からの誘いがあるが、中日文化協会上海分会理事の座を拒否。における中国の美術展(全国美術展覧会の参与者)、美術の普及と教育に多くの努力を払ういっぽう、いろいろな機会を利用して「ステータスjを高めていった。しかし死後、近年「劉海粟年表」や「経歴」には偽装があると指摘され、「歴史偽造J「作品剰窃J「漢好」と非難される。日中戦争中の劉海粟の経歴を振りかえってみる。1937年4月、国民党教育部第二次全国美術展覧会審備委員、審査委員。10月、油絵「四行倉庫」を制作。1939年1月、上海(孤島)で近作展覧会。11月、船で上海を発ち、南洋へ。12月、爪睦(ジャワ、インドネシア)に着く。1940年1月、巴城(ジャカルタ)にて南洋の華僑の主催による「中国現代名画審賑12月、ジャカルタから華僑の主催による個展開催のためシンガポールへ。1941年2月、シンガポールで「劉海粟教授馨賑画展」を行なう。1942年2月、英軍がシンガポールを放棄したため、船でジャワ、のち高隆(バンド1943年2月、日本軍の秘密警察に上海の文化人の身分がばれ、連行され南洋での活5月、日本軍により中国(上海)へ送還。10月、駐上海領事岩井の来訪を受けるが、日本への視察を拒否。1944年5月、上海を発つつもりで杭州に着くが、自分の行動は日本軍に監視されて『劉海粟年譜j(注7)をみると、日中戦争時期に描いた作品は、いままで紹介や公表がほとんどない。(石楠『劉海粟伝』には1940年の油絵の「害厘舞女」〔図5〕写真のみ掲載している。昭和18年7月2日『大陸新報』に劉海粟が南洋で描いたと思われる「パリーの女」〔図6〕一点が掲載されるが、文字記載が見当たらない)常州・上海の劉海粟美術館などを含め、日中戦争期の作品の所在について確認はできない。画題からどのような作品か推測できるものもあるが、多くは伝統的なテーマで、戦争画のようなテーマはなかった。『年譜』には、抗日を激励した作品「四行倉庫jと書いてあ展覧会jに参加する。恰保(イポー、マレーシア領内)華僑の招待を受け、恰保で「馨賑」画展。ン)へ避難。日本軍はシンガポール・インドネシアを占領。夏、ジャカルタに遷る。動(抗日のため画展を通して寄付金調達)を訊問される。いたことに気付くという。(注6)-529-
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