鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(2) 陳抱一課長、川本大佐、御船大佐、高島総裁、波多博、吉田東祐、丁黙郁、林康侯、j番三省、呉湖帆、蘇森、許暁初、馬公愚、周夢白、銭痩鉄等5百齢人、情況異常熱問。婚礼後来賓代表林康侯氏致詞、情趣風生、口座口然、最後由主婚人代表陳彬訴致謝調。」(『申報』1944年1月16日)(下線筆者)日中戦争期の『申報』の記事には、劉海粟と日本との関係は突出している。陳抱一(1893〜1945)は広東省新会に生れた。近代中国の美術界で、終始洋画を追求した著名画家の代表の一人だろう。1913年に初来日、1916年10月「東京美術学校西洋画科撰科」に入学、1921年に同校を卒業、日本人妻の飯塚鶴を連れて上海に帰国した。1925年、私財を投じて上海で中華芸術大学を創設、主任委員・西洋画教授をつとめた。陳抱ーは留学中に後期印象派などから影響を受け、有島生馬や中川紀元らと交遊した。日本・中国の美術界に知友が多く、徐悲鴻や劉海粟も一目置く存在で、人格者としても知られていた。身内に日本人がいることから、日中戦争期の陳抱ーは複雑な立場に置かれた。陳抱一年表1938年、香港にスケッチ旅行に出かけ、香港で展示会を開催。作品:「緑舵J「香港風景」1939年、(秋)周碧初らと上海で「連合油絵展覧会」に参加。作品:「少女j、「流亡者之群」1940年、政治的に苦境に陥る。生活も困窮、病を得て自宅にひきこもる。作品川南洋華僑J1942年、弘一法師追悼会に参加。夏写尊の依頼した「弘一法師像j制作開始。作品は他に「緑舵像」、「自画像]、「香港風景j1943年、『新申報Jに西洋絵画紹介を寄稿。「弘一法師像」制作完了。(注9)1944年、作品:「西湖塞専一角」、「橿西風景」1945年、終戦直前に病死(7月)、享年52歳。それまでに近代中国洋画運動について、今日では重要な文献となった「洋画運動過程略記」を書き残していた。戦時中、陳抱ーは戦争とまったく関係ない人物・風景を描き続けた。1941年と1943年に描かれた「自画像」二点には、日中両国の板挟みになった彼の深い憂いが凄み出ているように思える〔図7〕。-531-

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