鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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接管轄した大型日刊紙である。上記文章は、中国近代洋画についての学術的にも貴重な研究史料である。しかも彼は、日本の洋画についての記述をいっさい避け、西洋絵画のみを論じた。これは、世間の目を意識しての行動であろう。四、重慶の画家:徐悲鴻徐悲鴻(1895〜1953)は、近代中国美術史上最も権威ある画家の一人である。原名寿康、江蘇省宜興に生れた。のち同郷の蒋碧微と知り、1917年に共に日本に渡り6ヶ月で上海に戻った。ヨーロッパに官費留学、1927年に田漢らと南国華術学院を創設、1928年から南京の中央大学教授を兼任、翌年北京塞術学院院長となる。日中戦争期には南洋で個展を聞き、収入を中国の難民救済にあてた。また中央大学で教鞭をとりながら中国美術学院の設立準備に尽力した。日本敗戦の翌年、北平(北京)に戻り北平塞術専科学校長となり、優秀な画家たちを教授として招いて塞術教育につとめた。建国後、中央美術学院院長に任じられた。年表1937年、桂林で美術学院を創設する(構想、)。5月、香港大学の招きに応じ、香港などで個展。8月、中央大学(南京)に戻り、引き続き教壇に立つ。9月、南京から桂林・重慶へ。重慶に移転した中央大学の開校にともない、教鞭をとる。1938年、4月、「三庁jに行くが赴任せず。6月、タゴールの招きでインドへ。インドで個展。1939年、香港から船に乗り、シンガポールに着く。個展を開く。シンガポールからインドへ。作品:「愚公移山J(油絵)など。1940年、年末、シンガポールに戻る。作品:「印度風景J(油絵)など。1941年、マレーシアに赴き、個展を開催。米国でも個展披露の計画があったが、日本軍の進攻で渡米断念。1942年、インド行きの船に乗り、ミャンマー経由で雲南に帰国。雲南で難民救済のため作品を制作し、絵画展を行なう。6月、重慶に戻り、中央大学で教える。張大千・呉作人らを研究目的の「中国美術学院」に招鴨する。9月、重慶の全国第三次美術展覧会に参加。10月、解放区の木刻、古元を称賛する。-533-

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