鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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1943年、3月、重慶中央図書館で個展を披露。1944年、2月、中国美術学院第一次美術作品展覧会に参加。年末、腎炎で入院治療。1945年、5月、体力は徐々に回復、再び教壇に立つ。年末、蒋碧微と離婚発表。(注10)日中戦争期の初期にはシンガポールなどで個展を聞き、収入を中国の難民救済に寄付した。戦争中の難民救済活動は中国で大きく評価されている。難民救済活動は囲内でも力を尽した。囲内では、中央大学で教鞭をとりながら中国美術学院を設立し美術振興につとめた。解放区の木刻に注目し、「中国共産党」の古元の塞術を称賛した。国民党には一貫して批判的であったと考えられている。1938年彼は武漢で「第三庁」に招聴されたが赴任しなかった(張道藩と当時の彼の夫人をめぐる関係からともされる)。しかし、のち国民党主催の全国美術展覧会組織者のメンバーになり、1942年国民政府教育部が重慶で開催した「第三次全国美術展覧会jで、展覧会の組織者である準備委員会のメンバーとなり、さらに張道藩とともに常務委員になる(主任張道藩)。この展覧会に、中国画「落花人独立」「古柏J、油絵「印度牛」を出品した。この事実は、これまでの多くの徐悲鴻研究書に取り上げられていない。展覧会が国民党主催だからであろうか。徐悲鴻は戦時中に「田横五百士」「愚公移山」のような「抗戦を煽るJ歴史画のほか、中国画の「馬」「鷹jの勇猛さを強調する画によって、人々を「抗日」に激励した。そのため「抗日的」なイメージが定着していて、現実に「消極的抗日Jの国民党に協力していた事実は、大陸で歓迎されないのであろう。「徐悲鴻は一貫して共産党支持」という「誤解」も定着している。重慶時期に新たに結婚した夫人が未だ存命中であることも、彼の「名声」を守るのに貢献しているだろう。五、おわりに本稿は、日中戦争期の対日抵抗や協力の実相を、特に日本とかかわりのあった代表的な美術家4名、そうでないケースの徐悲鴻について、新たな史料(作品・史料)を発掘し、それを解読する基礎的な試みである。今回の資料調査はいわゆる「漢好」と愛国者、それぞれにレッテルが貼られた画家たちの当時の資料を発掘することに重点をおいた。結果として斉白石、蒋兆和、徐悲鴻にかんしては、いままで流布していた「伝説」534

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