鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
545/592

注(1) 『斉白石義術研究1に、停鎮岳による「留取丹心照汗青賛斉白石大師在抗日戦争時期的愛国(2) 殿同の経歴について、日本側の『現代支那人名辞典j(大陸文化研究所、昭和14年)を参照。(3) 林木『20世紀中国画研究J。「口小石」は恐らく「活小石」(蒋兆和の「義専」同僚)、他は不明。(4) 関其放「憶蒋兆和先生的一件事J(『日偽統治下的北平』北京出版社、1987年)によれば土方定一(5) 呉夢非は「五四運動前後的美術教育回憶片断」(『美術研究』1959年3期)では、李叔同は1914年(7) 前掲『劉海粟年譜』(8) 石楠著『劉海粟伝』(黒竜江人民出版社、1996年)0 (9) 『現代美術家陳抱一』(北京、人民美術出版社、1989年)。(10) 王震『徐悲鴻研究j(江蘇美術出版社、1991年)に収録。と異なった事実が多く見られ、一方劉海粟については近年の「漢好」非難に一致するような事実が見出されている。また陳抱一は、その行動から「漢好」的な内容は見出されていない。特に蒋兆和の名作「流民図」の描かれた動機や経緯は、当時の資料を発掘すると、生前の本人の主張や中国での現在の評価が、当時と大きく食い違っていることが理解された。これは新中国における日本占領下の美術家の評価に関する、根本的な問題を提起しているように思われる。引き続きこれらの画家たちの戦時下での行動を事実に基づき追跡し、当時の作品と併せて検討することで、テーマのより一層の深化を心がけていきたい。精神」がある(商務印書館、1999年)。が段同の生前に蒋兆和を訪ねたことが書かれている。から男子裸体モデルを写生させたといい、それを中国での裸体モデル使用の始まりとしている。(耐震志燈・陳祖恩編『劉海粟年譜』(上海人民出版社、1992年)から抜粋。-535-

元のページ  ../index.html#545

このブックを見る