鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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くのキリスト教碑銘が発見されているのである(注9)〔図1・墓室Va〕。この状況は、キリスト教徒が異教徒とともに埋葬されたはずはないとする、伝統的理解に強く拘束されていた多くの研究者たちを困惑させた。事実、マルキやガルッチは、この状況を、キリスト教徒によるカタコンベの地下通路掘削中に、全く偶発的に、異教徒の地下墓所の只中に接続してしまったに違いない、という苦し紛れの仮説によって説明しようとした(注10)。残念ながら、彼らの学問的権威の影響もあり、その後も多くの研究者がこの仮説を無批判に受け入れ、結果的に、このヴィピア地区の埋葬状況が語っている事実と正面から対置することが、長い間回避されてきた。先のフェルーアによる研究調査は、それまでの根拠のない仮設を完全に払拭し、4世紀のキリスト教埋葬領域で起こっていた新たな事実を、より鮮明に浮き彫りにしている。すなわち、このヴィピア地区では、キリスト教徒の墓と異教徒の墓が、何の問題もなく平和的に並存しており、そこには、現代的常識からは想像し難いほどの、キリスト教と異教、あるいは異教聞の相互の宗教的寛容が存在している(注11)。キリスト教が帝国の公認宗教の座を獲得してから数十年、増大するキリスト教勢力の一方で、特に貴族階級を中心に異教への回帰運動が再燃する。一度は、新たな宗教に改宗しながらも、再び伝統宗教へと戻っていく者たちも数多く存在したに違いない。複数の宗旨宗派が複雑に混在していた、そのような4世紀中頃という特殊な状況を、我々は十分に考慮しなければならない。ヴィピア地区の埋葬状況が示す宗教的寛容は、この私的地下墓所に帰属する者たちが、そのような宗教の違いを超えた結びつきの元に共存していたことを物語っている。同時に、それは、彼らがそれぞれの墳墓を彩る図像主題や、そこに描き出される死後世界の表象を、十分に熟知レ慣れ親しんでいたことをも示唆している。ヴィピアのアルコソリウムに描かれた壁画の存在を、このような、近年の新たな地誌学的コンテキストの中に位置づけて見るとき、4世紀中頃のキリスト教徒たちと、異教的死後世界の表象との親密な距離感があらためて実感される。愛する者の魂が、死後の世界で安らかにあるようにという、宗旨宗派の違いを超えた万人共通の遺族の想いを、確実に保証するために描かれた異教神ヘルメスの存在は、キリスト教公認(313年)の後、およそ半世紀の時が過ぎようとも、同じ地中海文化を共有するキリスト教一般信徒にとってもまた、いまだ身近で親しみのある、死者の魂の同伴者として身近に存在し続けていたのではないだろうか。-540-

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