2. 2000年度助成① 1873年ウィーン万国博貰会における日本研究者:国際日本文化研究センタ一文化資料研究企画室助教授1.ウィーン万国博覧会の位置付けウィーン万国博覧会は、明治政府が公式に参加した最初の万国博覧会である。この参加の目的を博覧会終了後に観光された「博覧会報告書」から探ると、(1)日本の繁栄を世界に知らしめる。(2)世界の優れた技術を吸収する。(3)博物館建設のノウハウを手に入れる。(4)輸出の増加(5)輸入の増加といった五つの目的が挙げられている。おそらく、この博覧会参加の目的はほぼこれで言い尽くされていると言えるであろうが、この五つの意味の持つ重みは必ずしも均等で、はない。博覧会の立役者である佐野常民は、計画当初から若い伝習性の派遣を強く望んでいた。ヨーロッパの新しい技術をこの伝習性によって日本へ輸入しようというのが彼の最大のもくろみであった。しかし、当初財政難であった政府にはこのもくろみはなかなか受け入れられなかった。そこで佐野常民は実にすばらしいアイデイアを捻出する。出来るだけ多方面の技術者を展覧会実働部隊として派遣してしまい、展覧会終了後はそのまま彼らが伝習性となってしまう。その滞在費は展示品の売却利益を当てたために、本国政府に負担を掛けることもない。これほどまでの彼の熱意からすると、ウィーン万国博覧会の最大の目的は上記二番目、三番目であったのではないかと考えられる。事実この報告書の大部分は、博覧会の出品物や評価に関することよりも、かれらの伝習の記録に割かれている。二度目の参加になるフイラデルフイア万国博覧会以降の参加は、美術工芸品の展示を行ったり、輸入したりと、見える物の輸出入に主眼がおかれているが、ウィーン万国博覧会は技術という見えないものの輸出入に主眼がおかれているところが、大きく異なると言えよう。では、ウィーン万国博覧会とそれ以降の万博の聞の関係は無関係であったのかといえばそうではない。ウィーン万国博覧会は、二度目以降の万国博覧会の方向を決める上でも重要な役割を果たしており、また内国博覧会の時代が始まる契機ともなっている。そもそも、日本人に博覧会という概念およびその運営方法を初めてもたらしたのは549 森洋久
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