半官半民の商社である。本格的な活動は1874年ごろからといわれ、この起立工商社の活動はジヤボニズムの原動力となった。やがて、香蘭杜など同種の商社が多く立ち上がり、また政府の後ろ盾も乏しくなって行き、起立工商社は1890年ごろ店を閉じることとなったが、ゴッホの絵にも登場するなど、その影響は大きいと見える。しかし、ヨーロッパで実際に現存が確認されている起立工商社の製品はごく少なく、今後の調査によるところが大きい。また、日本の産業の発信に多くの尽力を惜しまなかったのがシーボルト兄弟である。ハインリッヒ・フォン・シーボルトは自分のコレクションをヨーロッパ各地に売ったり、寄付して歩いたと同時に、ウィーン万国博覧会の出品物についても同様に裁いた。ウィーン応用美術館に残るコレクションもその一つである。4.参加者なにをもって博覧会への参加者と見なすかは問題であろう。j奥国博覧会賛同紀要にある渡航者名簿だけでも80余名あり、いかに大がかりであったかがわかる。しかし、実際にはそれよりももっと多くの人がこの博覧会には関わっていた。渡航者の他にも、博覧会事務局の留守組、また、出品物の作者、また収集に関わった各県庁の役人達、また、収集された出品物を調査、検査、あるいは、収集のためのアドバイスをしたかもしれない、研究者の人々などが挙げられよう。しかし、実際にどのような人がいたのか今後の調査によるところが大きい。収集、調査に携わった人を追うことは特に難しい。ここにはその一人、鉱物学者和田維四郎について述べてみよう。彼の著書「日本錆物誌」の第三版の緒論に若干の記述がある。和田維四郎は当時間成学校のドイツ部の学生であり、ドイツの鉱山技師カール・シェンクに師事した。当時としては鉱物学なる学問は日本になく、この開成学校の授業自体も不完全な物であったと記されている。博覧会事務局が各地域から収集した鉱物は、ウィーンに送られるものと、囲内にとどめる物とに分けられた。ウィーンに送られた物に関してはオーストリアの専門家が調査を行ったが、国内にとどめた分については和田氏によって調査が行われた。これが、若干学生の和田氏によって始まった日本人の手による鉱物学のスタートであった。その後和田氏は、東京大学で教鞭をとり、日本の鉱物学の先駆をなした。博覧会の全体の指揮を取ったのは佐野常民であった。佐野常民は先にも述べたように龍池会を結成するなど美術、骨董の育成、また、シーボルト兄弟とともに博愛社、後の日本赤十字社を設立するなどの功績がある。田中芳男は本草学者であり、東京国552-
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