立↑専物館の創設、上野動物園の創設などに関わった。和田維四郎と共著で鉱物の本も書いている。高等商業学校教授になった石井巌は「商品jという本を書いている。これは日本の経済学史上の重要な教科書と言われている。津田仙はウィーン万国博覧会では庭園建築にたずさわり、そのあと農林政策に関する視察に関わっていたようだ。帰国後も農林関係の重要な仕事をしている。また、津田仙の娘、津田梅子は渡米し、後に津田塾大学を創設したことはよく知られたことである。このような国家建設に関わった数々の人々のほかに、ウィーン万国博覧会を特徴づけることは、やはり多くの職人達が渡航したことであろう。西陣織の職人、伊達弥助は紡績機械の技術を日本にもたらした。また、鉛筆の技術を日本に初めて持ち込んだのは、藤山種慶、井口直樹である。ウィーン万国博覧会の目録を作っているときに江夏干城が黒鉛をもって上京したのを井口が見て、鉛筆の製法はヨーロッパできっと修得できるだろうと考えたのが始まりだ、った。服部杏園、ワグネル、納富介次郎は優れた陶芸と絵付けの技術を伝えた。こういった数々の職人、芸術家の話はきりがないほどある。鼠屋伝吉という人もいる。博覧会のために鎌倉大仏のハリボテを作った。このハリボテはいつも物議を醸していた。まずは、トリエステに着いたときである。既にハリボテは幾つかのパーツに分割されていたのではあるが、それで、も貨物列車からはみ出すような大きさだったらしい。陸路ウィーンまでの山岳地帯で果たしてトンネルを通までの聞の全てのトンネルの図面が取り寄せられ、検討の結果問題がないということが分かった。無事ウィーンに着いたのであるが、設営中誰かの火の不始末で火災が発生した。大仏の胴体は燃えてしまった、どうにか助かった大きな首だけが会場の中央にぶらさげられた。鎌倉の大仏は雨ざらしにすることによって、いかに和紙が雨風に強いかを証明するためのものでもあったのだが、そのミッションは果たすことが出来なかった。この職人達のとりとめもない話こそ、ウィーン万国博覧会を性格づけていると言えよう。このような数々の輝かしい履歴と功績の影に隠れた話もある。緒方惟直は幕末の医学者緒方洪庵の十子(五男)である。彼はウィーン万国博覧会のまえにはフランスで学んでおり、博覧会の後も明治8年トリノで学んでいる。明治9年、イタリア商業学校の日本語教授となる。このとき、イタリア人マリア・ジョヴァンナ・ジエロッテイと結ばれ、カトリック洗礼も受ける。この結婚は日本政府に内緒であったが、極貧の中で壊血病にかかり、妻と娘ジョコンダを残して他界する。その後ジョコンダは父のりt友けることが出来るだろうかということが問題となった。トリエステからウィーン-553-
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