国日本に迎えられ、緒方家で育てられ、医者光太郎と結婚し幸せになったという話である。森鴎外は「独逸日記」明治19年7月15日に、生計が厳しいことが分かっているのに結婚し、結果的に婦子を不幸にしてしまう多くの留学生のことに対して憂えている。「舞姫Jを思い起こさせるこの話の背景には経済的な問題は勿論あった。しかし鴎外とベネチアから訪ねてきた長沼の会話からも言えることだが、様々な文化的な差異が日本とEuropaの聞に厳然とあったと言えよう。j奥田博覧会賛同紀要の参加者リストにない人もいる。特にこの博覧会に関わった女性が文献から最低限4人はいる。一人は博覧会の日本館のフィナーレを飾った三味線を弾いた婦人0奥田博覧会賛同紀要)また、横浜在住のオーストリア人に雇い入れた3人の女性(昨夢録)がいる。外交資料館にのこる横浜港の勘合簿のマイクロフィルム「神奈川県の部明治6年」を見ると「j奥田行」と書かれた「ろくJ「いね」という女性名がある。博覧会の会場での、やみ日本茶屋につれて行かれた一行だろうか。5.日本に伝えられたウィーン万国博覧会日本に住む人たちはかねてから見世物は大好きであった。ウィーン万国博覧会に持っていった金の幌も明治五年の博覧会で人気を博した物の一つである。これを芯まで黄金製と思い込み切り取って行く泥棒も出たほどである。張りぼても見世物によく使われた技術であった。東京日々新聞に掲載されるウィーンの報告を追ってみよう。東京日々新聞明治6年6月12日海外新報の欄に、博覧会の会場の風景の絵入りで報道が始まる。ちなみに、このころの報道は情報が伝わるのにl〜2ヶ月前後の遅れがあることに注意されたい。内容は、まだ会期まえの準備の報道である。けがをした日本の大工に適切な治療をすすめ、医者に掛け合い、診察までつきあってくれた、ジェネラル・ディレクター、シュワルツ・センボルンの首古である。明治6年6月16日には開会式の式次第について掲載される。7月5日には投書の欄に、開会式の様子と、5月5日に、まだ制作中の日本庭園と建築を皇帝夫妻がご覧になって、褒められたことが書かれている。7月7日には、日本の紙幣、銭が外国の物に劣らないということが報告され、また、西洋の婦人が多く労働をすることを書いている。博覧会の工事の時にも、多く婦人が混じっていたとあり、西洋の婦人は全然働かないと言い伝えられているが間違いだと述べられている。当時、日本でこのような話が伝わっていたことがおもしろい。以降は日本が如何に珍しがられているかという話になる。トリエストで日本人が珍しがら554
元のページ ../index.html#564