から制作されたという)は、確かに出発前の〈バッカスの勝利〉と比較すれば、ゆったりした構想、全身像の人物配置、ヴェネツイア画派風のニュアンスある彩色等の点でイタリア化が認められるものの、イタリアに完全に屈服した訳ではない。“デイゼーニョ”の絶対性を信じてはおらず、鋭い観察眼に基づく生来のレアリスムを失ってはいない。さらに二点の風景小品は近年の科学的調査と技法研究(注1)により、第二次ではなく、第一次イタリア旅行中の作とほぼ断定できょうが、その主題の扱いも、モティーフへの感興も、イタリア的というよりは北方的傾向が著しい。しかも、ヨアキム・サンドラルトとクロード・ジュレ、通称ロランは1630年頃に戸外での制作を始めたらしいが、ベラスケスによるメデイチ家別荘の二点は、「野外の風景画で現存する最初の例」として称えられよう。当時、ベラスケスは彼らとの接触を始めていたろうし、パオリーナ通りにあるスペイン大使館の近く、後にプッサンが永住することになる建物にベラスケスも一時期寄寓したという〔報告者注:帰国後も、離宮ブエン・レテイーロの絵画装飾のための購入作品の中で、プッサンやとりわけクロードの風景画が際だ、っているのも、この時の交遊があってのことに違いない〕。フエラーラではジ、ユリアーノ・サケッティ枢機卿、チェントでは画家グエルチーノ、またローマではフランチェスコ・パルペリーニ枢機卿や同秘書カッシアーノ・ダル・ポッツォとも交流を深めることになった。しかし、帰国後のベラスケス作品、例えば〈十字架上のキリスト〉や〈修道院長聖アントニウスと隠修士聖パウルス〉、〈道化師パブロ・デ・パリャドリード〉等に目を向ければ、古典的形体原理を超えてイタリア美術との距離を保とうとする姿勢さえうかがえるであろう。その理由は何であったのか。第一に、ルーペンスは7年間、ヴーエは13年、ルプランでも3年、と比較してベラスケスのイタリア滞在は短く、またその時期も30歳前後で、かなりの年齢に達していたことが挙げられよう。第二に、イタリアにおもむかずともすでにセピーリャで、パチェーコの指導によりイタリアの美術理論や古代哲学、中世神学にも精通し〔ベラスケス没後の二度の蔵書目録を参照〕、また1623年に王室画家となってからは豊かな王室絵画コレクションを通して、ヴェネツィア絵画を中心にイタリア美術に関して相当な知識を蓄積していたことであろう。要するに、ベラスケスが絵画の理想、としたのは、晩年の〈織女たち〉、〈ラス・メニーナス〉において実践されたように、「絵画とは光と色彩の理解に基づく暗示の芸術であ564
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