鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
580/592

F片UにUったのです。あるパリに住むことは、この若い芸術家の欲求を満たすために必要なことでありましたし、また、第一次世界大戦が終われば、この国の北部や東部の荒廃した地方の復興のためには建築家が必要であったということです。実際にはそのような注文は彼には一つも来ませんでした。それに反して、パリ定住の最初の数年間は絵画と文筆のための決定的な第一歩を踏み出す時期となりました。彼の助言者であるアメデ・オザンファンと共に、彼は立体派以後の教義である「純粋主義Jを練り上げて、その厳格で幾何学的な絵画作品をアンデパンダン展に出品し始めたのです。1919年に彼が中心となって発刊した雑誌『新精神Jは彼の著述と出版に対する情熱をかきたてました。この雑誌は討論の場であると同時にメディアに接近する手段であり、また彼の建築作品を世にみとめさせるための手段となりました。事実その過程において、初期の新鮮で、厳格な小建築の注文がありました。それらはエリートの芸術愛好家や知識人の階級からのものでした。ル・コルビ、ユジエという名は画家ジャンヌレと区別するための筆名で、その著作や建築作品に使いましたが、それは彼の新しい芸術が建築に新しい道を示し始めたパリにおける最初の時期でした。1923年に彼の著書『建築を目指して』は、彼を芸術界の一流の人物に押し上げ、建築も徐々に良い注文があるようになりました。続く数年間は彼の理念を発表するための芸術の世界の組織を活用することでした。すなわち、1922年のサロン・ド一トンヌに始まって、ヴォアザン計画が1925年に立案されて装飾美術展に陳列されました。これは当時としては前衛的な計画であり、また同時に社会生活における建築家の役割を明らかにする新しい概念を示すことでもありました。すなわち工業的な量産住宅、都会の共同住宅、そして1925年からの機械時代の新都市の計画などです。建築物を近代化するための新しい形態のシステムを提示するために1926年に近代建築の5原則が提案されました。それは、「ピロティー、陸屋根、自由な平面、横長の窓、自由なファサードJです。これはシステムの精神によるものですが、厳格なものではありません。なぜならば、技術的、形態的な要素の組み合わせは、タイポロジカルな原則によって行われますが、それとは性質の異なる「自由な平面」はあまり一貫性がありません。それはそれとして、この原則はボ、ザールのアカデミックな文化や芸術の諸分野の折衷主義に対立する(反アール・デコ)理念の表明なのです。この近代性の知的、芸術的な場に存在を示したいというこの意志、芸術家とエンジニアの手を結ばせたいという欲求は、ひとつのエピキュリズムの美学を明確化するこ1917年のパリ定住は二つの確信によるものでした。輝かしい知的、芸術的な中心で

元のページ  ../index.html#580

このブックを見る