Gd とにもなりました。すなわち、ル・コルピュジエはハンネス・マイヤーやカレル・タージュのような唯物的機能主義者にはならなかったのです。彼の「住む機械jは楽しむための機械、人を魅惑するための機械でもあるのです(マイヤー婦人宛の手紙)。彼の絵画には形態とパースペクテイヴの統合が見られると同時に大きな活力が探っていまヌレと、若くて腕の良いデザイナーのシャルロット・ペリアンに活動の場を与えました(彼女は1940年に東京へ招待されることになります)。ついに1926年から彼は国際的な人物となります。しかし一つ足がかりになるべきジユネーヴの国際連盟宮のコンペで失敗します。彼は現代国際建築家大会のCIAMに参加したり、中巨大、ソ連、ブラジルへ旅行しました。1930年頃、彼の大建築物は華々しいマニフェストでありました。最初の近代様式のパリ大学都市のスイス館は、自由な形態、曲面や凹面の壁、土着の材料、すなわちその土地の意志の組積造を使い、有名な「建築の散歩道」をはっきりと表現しました。単純であると同時に複雑な建物であるサヴォア邸については、ロパート・ヴェントゥーリが、「突出した部分を厳密に隠蔽し、見せる部分では複雑な内装になっている」といっています。は前衛建築家たちに重大な影響を与えました。世界中から集まった多くの若い設計者(彼らは無償協力者でありましたが)を迎え入れた彼の事務所で、ル・コルピュジエは都市のタイポロジーの研究に没頭していました。この書物を書く建築家は、その教義を二冊の本によって表明しました。それは1935年に出版された『輝く都市』と『アテネ憲章j(1933年のCIAMの機会に書かれ、1944年に刊行されました)であります。ル・コルピ、ユジエの芸術文化は進展しました。それは土着の建築の発見であります(ギリシャやアルジエリアの島々において)。彼はシュール・レアリズムやフェルナン・レジェの芸術を知りました(海岸で見つけたオブジェの風変わりな美しさについてシャルロット・ペリアンが語っています)。彼の絵画は一層自由になり、偶発的なグラフイツクな形態や神話の人物像を描きました。彼は叙情的で神話的でモニュメンタルな芸術への道を進みました。彼に対する外国の若い建築家たちの支持は確かなものとなりました。1935年にはブラジルで彼の追随者であるルチオ・コスタやオスカー・ニーマイヤーが成功を収めました。戦争の聞はル・コルピュジエにとって耐え忍ばねばならない不活動の時期でありました。それは彼の母国スイスの文化による政治活動に対する視野の狭さの結果であります。彼はフランスの新政権と協力しようと試みましたが、失敗しました。(幸運にも)。す(1926〜1932)。事務所の設立はよい技術をもった彼の従兄弟のピエール・ジャン・1930年代の経済危機によって個人からの注文が止まってしまいましたが、このこと
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