ハU1945年以後、開放されたフランスでは復興都市計画省の大臣であり、エンジニアであ1950年代にはアメリカの政界の人々の彼に対する敵意(彼の協力者たちが共産主義り、テクノクラートであったラウル・ドーティによって公的な発注の仕方が変換されて、20年前に作成された提案に対する歩み寄りがみられました。クローデイウス・プテイのような政界の大物は、彼はレジスタンス出身の人でありますが、現代芸術による建築に好意的でありました。公共のための住宅建設の政府の計画は公的発注をうながしました。「マルセーユの輝く集合住宅」(1945〜1952)がその例であります。技術的に完成され、快適な設備の整った集合住宅の原形となったこの建築は、彼の個性的な芸術的な提案で満たされています。それは多色とモデュロールの適用であります。巨大建築が仕上がると彫刻の制作が行われました。木彫は彫刻家サヴィナの、砂を使った彫刻は彫刻家ニヴォラが協力しました。さらに七宝工芸品、タピスリーなどがこの共同住宅のために制作されました。者ではないかと疑われた)によって、ニューヨークの国連本部やパリのユネスコ本部の建設の発注から外されましたけれども、彼の現代性に満ちた提案に刺激されて、思いがけない方角から素晴らしい注文が舞い込みました。それはロンシャンのカトリックの巡礼教会、ラ・トゥーレットの修道院、独立したインドの新政府の首都の計画などでした。シャンデイガールでは集団的な大きな儀式への郷愁に強烈な近代的なモニユメンタルな発想が加わった建築物が計画され、それがその土地で調達可能な建設手段に適合したものになっています。また東京の西洋美術館(1957〜1959)も忘れてはなりません。ブラジルの新首都ブラジリアでは、大統領がフランスの新大使館の設計をフランスがル・コルピュジエに依頼するように主張しました。しかし、ル・コルピュジエの晩年は必ずしも華々しいものではありませんでした。フランスにおける建築の工業化への彼の参加は失敗に終わりました。職人的な方法による建造物のために考案されたユニテ・ダピタシオンのプロトタイプは、工業によって建造される建物の原形にはなりえませんでした。アンドレ・マルロ一大臣の大計画(パリ中心部の西方に建てられる予定だった20世紀美術館など)は実現しませんでした。彼に残されたのは、美術、詩、自身の手掛けた建築の写真映像(写真家リュシアン・エルヴェが撮影)を楽しむこと、それを編集出版することでありました。『直角の詩』などがその例です。ル・コルピュジエの晩年の状況を定着して見せているのが、彼の芸術作品であります。例えば、手を広げた象徴的なモニュメントです。共和国および作家であり大臣であったアンドレ・マルローはこの建築家の熱烈な理想を思い起こして、彼の死に際して厳かな公的な敬意を捧げました。1960年代の若い建築家を引
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