きつけた能力などを強調したいと思います。勿論、日本からも坂倉、前川のような人たちがやって来ました。何故でしょうか。それは彼が他の人々よりもより適切に偉大な建築家の神話を変革することが出来たからではないでしょうか。私の友人であるチューリッヒのスタニスラス・フォン・モースもそう言っています。しかしまた、現代芸術の大きな断絶をもたらした者として、彼は人々の幸福や、家庭生活の快適さや、日常における「建築の散歩道」の楽しみを考え続けたのであり、それは現代の悲惨さに対するたゆまざる悲劇的な戦いの中で行われたのです。この現代の悲惨さに対しては彼は芸術家、政治家、教育者、技術者、産業界のあらゆる人々の関心と思いやりを求めたのであります。新しい文化の献身的な伝達者として、彼は1955年のバンドン会議の後に新しい別の世界の出現の代弁者であることを西洋において自覚したのです。.演題「1950年代のフランスの建築」(2002年11月19日於東京日仏学院講堂).院長挨拶。日仏学院創立50周年を迎えました。1951年に坂倉準三によって建てられたこの校舎にモニエ教授に建築について講演をお願いすることは意義深いことであると思います。.森島によるモニエ教授の紹介。略歴と著書および前日から都内の建築を案内しながら感じた先生のお人柄など。ル・コルピュジエに緑のある建築が多い東京で講演ができて嬉しく思います。私は日頃、建築史を新しくしようと努力しています。事実の羅列、スタイルを列記した年代記を書くのみでなく、それに批判を加え、歴史家として思想的、社会的な広い視野から精密に建築を見たいと思っています。今日はフランスの1950年代の建築について語ることを求められています。この時代に現れたのが、ル・コルピュジエで、他にジヤン・プルーヴェなども世に出てきました。これらの名前を挙げるだけでは不十分で、、この時代が深い変化の時期であったことをお話ししたいと思います。フランスにおける戦後の建築の受容は受動的なもので、テクノクラートにリードされたものでした。彼らは当時の経済文化を「栄光の30年間Jなどと言っていますが、建築には当てはめにくいものです。50年代は復興再建の辛い時期だ、ったのです。建築家にとっては必ずしも華々しい時期ではなかったのです。復興は企業の近代化が遅れていたために遅々たるものでした。都市化、工業化は50年代に始まり、まず住宅や病院の需要が高まって、それは20年間ほど続きました。こうしてジャン・ブルーヴェに-571-
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