代表される工業的建築が1973年まで続いたのです。当時のフランスでは大きな建築に関する決定はパリで下されました。政府のレヴ、エルで、復興都市計画省という新しい省がその中心で、テクノクラートやエンジニア的な人々が力を発揮しました。19世紀に根を持つテクノクラートと現場の保守的なボザールの伝統を持つ建築家との聞にはギャップがありました。ロンドンと違って、パリは戦争で破壊されなかったので、再建はパリで決定されて地方で実施されました。同じ戦争で40年から44年の聞に重大な被害を受けた英仏の再建の仕方を比較してみます。ドイツの空爆を受けた英国では急速に復興計画が始まっていました。空爆の最中においてさえ、復興計画が練られていたのです。1940年、被害を受けた工業都市コベントリーでは、破壊された教会の廃嘘を証言のために残して、新しいものを隣に建てました。歴史の証言を行おうとして、画家が廃嘘を写生して、新都市の中に廃嘘を残したのです。フランスでは国が主導権を持ち、1941年春の「イリュストラシオン」によれば巨大な空想的な再建計画が出ています。保守的な特徴をそれは持っています。ロアール河畔のジアンの町は40年に破壊され、41年から様々な復興計画が出されました。フランスの計画は受動的、ノスタルジックでロンドンのようなダイナミズムは見られません。空爆はフランス全土に及んで、いますが、特にノルマンデイあたりの海辺の大都市のほとんどが破壊されました。その復興計画はサンマロの港の例のように、無くなった形を再現するのが目的であり、表面的な風景を取り戻すような絵画的、美的、ノスタルジックな復興でありました。ヴイシ一政権下でも過去に対するノスタルジーが方針の主流でした。ボルドー近くのロワイヤンは1945年1月に連合軍によって破壊されましたが、その復興はエンジニアで建築家のラファイエとジレによって行われました。それは平板で、はありましたが、新しい形態が見られます。つまり伝統性が少ないのです。他方では、近代化も行われて、たとえばペレはアミアンで駅と高塔を建てましたがそこには独創性が見られます。ル・アーヴルでは44年9月に破壊された後、そこでもベレが才能を発揮しました。それはひとつのタイプを街全体に適用したもので、鉄筋コンクリート建築の典型となったものです。市役所も含めてベレの設計ですが、それは厳密にクラシックな形態で魅力の少ないものでしたが、街に緑が増えるにしたがって住民に好かれるようになりました。ベレの弟子であるアメリカ人のポール・ネルソンは1930年代から主として病院の建築をしていましたが、サン・ローの復興のためにアメリカ市民の同情の募金を持って572
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