鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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やって来ました。彼の病院は十分なスペースと大きなガラスの開口部があって、革新的で模範的なものでした。南側の陽光に包まれたスペースは快適で、上方へ行くほど細かくなっている柱は優雅です。ここではシャルロット・ペリアンやレジェが協力しましたが、多彩な色を使って、あたかもポップ・アートを10年前に行ったようです。これらの中で、ル・コルピュジエの起用が重要であります。建築家の起用は国の機関の主導によって行われました。サン・デイエの街ではル・コルピュジエがアテネ憲章の精神で官庁街、共同住宅、個人住宅などのゾーニングをした計画を提案しました。この計画はニューヨークで発表された時には好評だ、ったのですが、住民がボイコットをして、最終的に政府推薦の別の建築家デユヴァルが担当しました。理工科大学出身のエンジニアであるラウル・ドットリーは復興都市計画大臣になっていましたが、彼はル・コルピュジエにマルセイユの実験的共同住宅としてのユニテ・ダピタシオンの設計を依頼しました。45年頃には住宅建設をパブリック・サーヴイスにしなければならないという方針があったようです。そういう趣旨のスピーチも残っています。この建物はその後の20年間他の新しい集合住宅模範となりました。ユニテ・ダピタシオンはピロテイで支えられ、屋上に共同の庭園、幼稚園、遊歩道があります。鉄筋コンクリート造で、プレハブの要素もあります。各住居が窓として使えることです。したがって通風も良いのです。建物は一つの村であり、中には商店もあります。設計にはモデユロールが適用され、全ては人間の身体を基準にしています。正面にはそれを描いた浮き彫りが付けられています。52年の落成式にはクラウデイウス・プティ大臣も列席して大成功でした。この頃から低家賃住宅が建てられ始めて、建設中のマルセイユをみてルゼ、などの他の都市からもユニテの注文がありました。低所得者のための共同住宅を目的としたルゼでは賃貸式で好評でした。フィルミニーのユニテはマルセイユより節約型で、商店は入っていません。ル・コルピュジエの評価はこの50年代のユニテ以後高まって、ピカソやジャン・ヴイラールらもル・コルビ、ユジエを支持し、彼の名声は高まりました。ル・コルピュジエは信者ではありませんでしたが、意外にもカトリック教会からの注文がありました。カトリックも文化的再建期で、宗教建築を近代化しなければならないという意図を持っていたようです。その一つがロンシャンの礼拝堂で、これは世界的に知られています。山の風景と教会がよく調和し、内部の光と閣の演出が見事です。ラ・トゥーレット修道院は鉄筋コンクリートですが、内部の空間は美しく、光のコントロールが巧みです。ル・コルビュジエが「光の大砲」と呼んだものと、多色の壁面の大胆な組み合わせが素晴らしいと思います。彼は建築と平行して絵画の展覧会も行い、名声は頂点に達しました。パンジャブからの大きな注文-573-

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