鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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もこなしました。ニューヨークの国連本部やパリのユネスコ本部の設計案は拒否されましたが、彼は著作も多く手掛けて、20世紀を代表する芸術家で建築家として技術と芸術を綜合したのです。その聞に建築の工業化はさらに進み、再建も終わろうとしていました。工業都市などでは住宅の需要が高まっていました。若いフェルナン・プーイヨンは南仏で、石材を使って経済的な建物を造りました。石切り場の所有者と手を組んで、安価に材料を入手したのです。後に彼はアルジエリアに移って活躍しました。ジャン・ブルーヴェは44〜50年代まで合理的な設計でシンプルな構造の作品を大量に発表しました。ガラスを多用していますが、彼のエンジニアとしての長所が見られます。彼はナンシーの傾斜地に自宅を建てましたが、それは坂道の途中にある狭い土地で、屋根がビーム一本で支えられた単純で、好感の持てるものです。プルーヴェはピエール神父に協力して寒さと闘う貧民のための住宅の原形をつくりました。をするために徹底的な合理化をはかりました。マルリーのグランドテル団地はマルセル・ロッズが設計しましたが、50年後の今も良い状態です。多くは4階以下で植栽があります。ジャン・ボザールやジャン・ブルーヴェはクレテールのプレハブの住宅を作りました。これは職人の手工業的な技術との組み合わせが成功した例です。パリのフランス建築連合会の外壁はブルーヴェが考案したプレハブです。工場で作られた既製品を導入したものですが、惜しくも4年前に取り壊されました。「アルミパレス」はプルーヴェがセーヌ河畔に建てたものです。これはアルミのプレハブで、本来は一時的な建物でありましたが、移築が可能なものでした。盗難予防のために解体保存されていましたが、最近再建されました。エール・フランスのオルリーの建物はステンレスのパイフ。を使っていますが、それをガラスが繋いでいて洗練されたデザインになっています。アルベールの設計です。すが、これは原子力産業のために新しい建築が必要となり、ドットリー大臣がパリ南方のサクレに建てさせたものです。設計はペレが担当しました。巨大すぎると批判されましたが、50年代の建築の象徴的なものであります。ダムや水力発電所についても政府は努力して、ローヌ川につながる運河の発電所の設計コンべではペレの弟子が選ばれてボザール系は後退しました。これもモニュメンタルですが復興期を象徴するものです。パリから50キロほどの所にあるルノーの工場はゼルフュスの設計です。社宅はル・1956年以後、国は建築家とエンジニアを接近させ、貧しい人々のための住宅の量産1955年からパリ南部に出現し始めたステンレスが多用された興味深いものでありま-574-

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