った長崎巌氏によってすでに調査図録が出版されており、それによって、江戸時代後半の小袖、打掛類のすぐれたものが、各地の美術館や個人コレクションに集められていることがわかる。本作品はそのなかの1点である。#101波に錨丈火消し纏(ウェーパ・コレクション)は、デザインとしては平凡だが、この赤い纏を身につけて大奥の女性が火事場におもむく姿を想像するのは楽しい。漆器は保存上の理由で日本からはわずかしか出品されなかった。#102の桃山後期の櫛箱や#103の江戸中期の化粧道具は大英博物館にあるものである。欧米の蒔絵コレクションは、輸出漆器を除いた近・現代の購入品に限ってみても、染織同様なかなかのものである。さらなる調査が望まれる。#108の鳥獣花木花井図扉風(プライス・コレクション)は、すでに日本には紹介すみのものだが、「かざりJの美術を象徴するようなそのエキゾティシズムあふれる特異な装飾画面はニューヨークの人たちを唖然とさせるに充分だった。欧米の展覧会は、観客の動員数よりも新聞や雑誌の反応を重視し、批評記事を細大漏らさず集める。「かざり」展の批評記事は50点余りに達したが、そのほとんどには、この扉風への驚きの言葉があった。“日本美術はミニマリストの美術だとこれまで考えられてきたが、そうではないことがはっきりわかった”との感想、も多かった。「禅」「わび」「さび」といった言葉と結びついた「ミニマリスト日本美術」という既成概念が、今回の展示によって少しでも変わることができたら、監修者としてそれ以上の満足はない。#180 祇園祭山鉾図杉戸絵は、今回の展示を機会に世に知られることとなった。もと東福門院の女院御所の「斜交いの廊下」にはめであったもので、4枚裏表8図ある。最近修理のために縁をはがしたところ、墨書があらわれ、それによって、建物の竣工年代が延宝5年(1677)、画家が「狩野外記」これは元禄10年(1697)まで京都に住み、元禄13年浅草猿屋町に屋敷を拝領し、享保3年(1718)に数え75歳で没した寿石敦信である可能性が高い←であることがわかった。杉戸はこれまで修学院や青蓮院に残ることが知られていたが、今回の発見によって、それらが当初どの建物のどこにはめであったか、製作年代、画家名などを知ることができたわけでその意義は大きい。今回の大英博物館での展示を担当したテイモシー・クラーク氏が、近くこれらをまとめて『国華』に報告されることになっている。ちなみに、今回の展示のために、日本から出品された作品は、すべて指定物件以外のものであった。にもかかわらず、魅力的かつ重要な作品揃いであったことは、欧米からの出品作のレベルの高さとあわせ、特筆されるべきであり、これはとりもなおさず、日本の「かざり」の美術の充実ぶりを意味する。この分野への評価の必要を改め578
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