⑥ 岡本秋嘩の画業と作品に関する基礎的研究一一干支印作品群を中心に一一研究者:平塚市美術館学芸員郡司亜也子先行研究と本研究の立場花鳥画で知られる江戸時代後期の画人岡本秋瞳(1807-1862)は近世絵画史において関東文人画の末流、とくに渡辺幸山の門人として理解され、大西圭斎に師事したこと、小田原藩土であったこと等が知られてきた(注1)が、その基準的作例が位置付けられていない上、伝記的資料に基づいた理解が多く、その画業と画風展開についての作品に即した実証的研究は充分とは言えない。今後の秋障研究では、先行研究の成果をふまえつつも、伝記で判明する事実の再確認、優れた作品の実査と観察にもとづく基準作例の抽出、特質の考察によって秋障画風をあらためて検証し、江戸時代後期の絵画史のなかに位置付けをし直すことが必要であると思われる。本研究は、その端緒となるべく、作品実査により秋障作としてよいことを確認した72件123点の中から、とくに制作年が判明する秋障の干支印作品群に着目してその画業と画風展開を明らかにし、また秋障画風が長崎派画風の系譜に位置付けられることを提起するものである。三岡本秋障の伝記作品群の検討に入る前に、秋障の伝記について、先行研究に若干補足を加えつつみておきたい。秋障の名は隆仙、字は柏樹といい、秋瞳のほか、秋翁などと号した。秋障以降岡本家の菩提寺である教学院の過去帳には、「文化四年生/岡本祐之丞隆仙/浄楽院一串秋障居土/丈久二年九月廿四日夜/享年五十六jとあって生年が文化四年(1807)、没年が文久二年(1862)であることが知られており、これまでに河野元昭氏は、秋瞳作例に支印として使用される「丁卯生」楕円印を、過去帳に記された生没年の傍証として指摘されている(注2)。この「丁卯生」楕円印は、本研究の調査作品中では、「花鳥図」双幅(静嘉堂文庫美術館蔵)、「秋花双鴨図」(個人蔵)に認められた。次に秋障の出自について、秋障の孫にあたる岡本隆一氏が記した草稿には「飯塚家より出たる岡本ゅうせんと云ふ人が江戸に出て町医者となり芝に開業して居った。其人の娘が大久保家に奉仕し側室となり世子を産む。之に依って格式を与えられ一家を創立する事になり岡本氏の甥に当る石黒家の次男祐之丞を養子とし岡本家を立て士分に列する事となった。此石黒氏は彫金家にて後藤祐乗家の門下で当時中々の老口家で52
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