鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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あったそうだ。ゅうせんの娘の一人が石黒家に嫁し其次男が岡本家を相続した訳なり。Jとあり、秋障は彫金家石黒氏の次男で岡本家の養子となったとされる。また同じく秋障の孫、岡本太郎氏の「岡本碧巌事蹟」には「曾祖父祐仙蘭医を修め諸大名に出入し家門盛なりしも嫡男なく長女に配するに政美を以てす、政美は幕臣の出にして家業を継がず査を狩野に金彫を石黒政常に皐ぶ(略)政美は師の後を襲名して石黒政美と称し知名の門弟十数人」とあり、この石黒氏が画を狩野に学び、彫金を石黒派初代政常に学んで政美と称したとある。石黒派は絵画風の自由な題材選択や新技法を特質とする町彫と称された装剣金工の流派のひとつで、政美の実子是美は小田原藩抱えの金工師となっており、秋障と石黒派、小田原藩と政美、秋日軍、是美の関わりについての検討が必要と思われるがこれについては今後の課題である。さらに小田原藩との関わりについては、現在小田原市立図書館に収蔵される安政五年順席帳(小田原市立図書館蔵)の「広間番Jの項に「御切米七石扶持三人分岡本祐之丞隆乗当己五拾四歳」とある。順席帳は藩士の役職・給禄を記したもので、これにより秋障は安政五年の時点で広間番の職についていたことが知られる。この小田原市立図書館本は写本であるためか秋障の名の「隆仙」を「隆乗」とし、安政五年に「五十二歳」だ、った秋障の年齢を「五十四歳」と記すいう甑睡も認められるが、いずれにせよ、秋瞳が画業に専心するため藩の閑職についていたことが考えられる。秋睡の師友関係については、江戸後期の漢学者、松崎懐堂の日記『撒堂日暦』中に秋障が大西圭斎の弟子として記されることが松木寛氏により指摘されている(注3)。天保六年一0月二六日条には、「岡本秋瞳来求其師圭斎賛(略)圭斎外史岡本秋障祐之丞外史名允、字圭斎庖人、越川氏之子、出継大西氏、世仕中津侯、少捨庖皐剣、長又捨剣皐童於宋紫石撃、後慕林良筆法、縦j静於四方、出入諸家法訣、寛為一家、性豪放、善飲、年五十七、丈政己丑年逝、時六月十一日也、授業岡本隆悟字柏樹、7虎秋障居士求賛、云外史暇珠、毎好汎舟zJH:」すなわち、秋障が師圭斎と親交のあった憐堂のもとに圭斎画への着賛を依頼したといい、同じ『憐堂日暦J天保八年五月二四日条には憐堂が秋瞳来訪時の覚書に基づいて圭斎賛を作成したことが記されている。秋障は圭斎が文政十二年(1829)に没したとき二十三歳、憐堂に着賛を依頼したとき二十九歳であって、秋障の画業の早期に圭斎への師事と敬愛はあったことは留意してよい。その後の秋瞳が渡辺畢山一門の画人たちと親交をもったことは、椿椿山が吉田柳践に宛てた書簡(椿山尺瞳其四十五)に「秋障の画御覧被レ成、御感心の由、御尤の儀に御座候、是は圭斎門人にて、頗上手に御座候、小田原公藩の人にて、小生同甲子位の人に御座候。畢山方へも懇意に被レ参候得共、門人には無レ之、小生も年来の熟知に53

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