鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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候得共小生も、唯友人のみに御座候。且絵事の談もろくに致不レ申候、元より先生蕪の任は有レ之候人物に御座候、董は甚感心仕候。」とあり、また畢山の日記『全楽堂日録』天保二年四月十一日条、十二日条にも「十一日青匡来、秋障来、秋障具東修乞余評騰其画/十二日訪秋障具小酌乞評自画大論之、未服知否」とあって、秋障は畢山の弟子ではないものの一門と交友があったことが知られる。峯山一門との交流についてはこれらの指摘に加えて、合作によりその様相がうかがえることを補足したい。たとえば、福島美術館に所蔵される「衆芳砕珠図」で秋障と菊田伊訓I(1791-1852)、椿椿山(18011854)、福田半香(18041864)、山本琴谷(1811-1873)、春木南冥(17951878)、春木南華(1819-1866)、根本愚洲(生没年不詳)らが合作し佐藤一斎(1772-1859)が賛を書していることは、天保年聞から嘉永年間にかけてこれら畢山ゆかりの儒家、画家との合作に秋瞳が参加したことを示し、また、福田半香が樹石、秋瞳が鶴を描いた合作扉風「松に飛鶴図扉風」(寺島文化会館蔵)の存在は、両者の親交をさらに直接的に証するものである。なお秋障の弟子には羽田子雲、尾口雲錦、荒木寛畝等がおり、このほかに秋障についてのいくつかの逸話が知られるが、秋瞳画風の考察のための直接的資料ではないため、機をあらためて検討を加えたい。三岡本秋障の作品一干支印作品群とその特質一秋障の画業中、干支印が使用されるのは弘化(18441848)・嘉永(1848-1854)・安政(18541860)年間であり、いずれも元号、干支、秋瞳重印の順に印文が彫りこまれる。本研究で調査した秋晦作品のうち干支印作品は[表]のとおりで、「弘化丙午(1846、40歳)」「弘化丁未(1847、41歳)「嘉永壬子(1852、46歳)」「嘉永発丑(1853、47歳)」「安政乙卯(1855、49歳)」「安政丙辰(1856、50歳)」「安政丁巳(1857、51歳)」以上七種、すなわち七カ年分が確認できた。ここで画中に干支印をもっ優れた作例から三作例を示し、干支印作品群の特質を考察したい。① 「老松孔雀図」〔図l〕弘化三(1846)年、40歳、寺島文化会館蔵「弘化丙午秋睡画印jの干支印、「秋瞳作」の楢書体落款を有する。水辺に松樹、蓄破の花葉、笹が描かれ、松樹の幹では雄の孔雀が首をめぐらして下方に視線をむけ、松樹の根元にある岩上では雌の孔雀が雄を見上げる。画面に素地を残さず墨を全体に刷き、松樹や岩といった背景を成す題材は墨のみで表す等、墨画に接近した様式を示している。墨画的要素について嘉永・安政年間の孔雀図、たとえば「花井孔雀図」(松-54-

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