鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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注( 1) これまでに岡本秋障について述べた論考、解説は次のとおりである。霞「岡本秋輝筆牡丹孔雀図」(『国華』第181号、1905年)(5)羽田子雲「私の知れる岡本秋障先生J(『書画骨董雑誌j第48号、1912年)(6)獅埼庵「四季花鳥図解J(『国華J第371号、1921年)(7)河野桐谷「岡本秋障に就いて」(「書画骨董雑誌J第295号、1933年)(8)「岡本秋輝筆花鳥図解」(『国華J第544号、1936年)(9)「岡本秋障筆藤花隻鶏図J(『国華J第650号、1946年)(10) 藤懸静也「岡本秋輝筆孔雀図」(『国華J第716号、1951年)制楢崎宗重「岡本秋嘩筆花鳥図双幅J(『国華』第752号、1954年)む2糟崎宗重[岡本秋障筆四季花鳥図巻J(『国華』第873号、1964年)(13)中野敬次郎『小田原近代百年史』(1968年)(14)河野元昭「岡本秋障筆雌雄孔雀図」(『国華』第928号、1970年)(15)鈴木進「岡本秋嘩筆岩上鷲鳥図」(『古美術j第40号、1973年)(16) 中野敬次郎『小田原文化誌』のうち(6)書道画道の大家たち(小田原市文化団体連絡協議会、1976年)制「岡本秋障筆花鳥図」(『小田原の文化財』小田原市教育委員会、1978年)側松木寛「都立中央図書館所蔵「秋輝下タ絵」について」(『東京都美術館紀要J第2号、東京都美術館、五江戸後期絵画史における位置以上考察した秋障画風について、最後に、それが形成された背景と江戸後期絵画史における位置について述べたい。秋障の干支印作品群において顕著にあらわれる鳥獣描写の特質、すなわち細綾な毛描き、目の周囲に隈を強く施す手法、肢の爪や鳴、舌の強調、また時に四季の景物を混在させてー画面に配する構成法等は、いずれも沈南頚をはじめとする長崎派の絵画に認められるものである。秋1軍が画を学んだ天保年間の江戸は、沈南頚画風を江戸に流行させた宋紫石(1715-1786)、その子宋紫山(1733-1805)がともに没して数十年を経、彼らに学んだ次世代画家の活動と、彼らが発行した画譜の流布を介しての長崎派画風受容の段階に入っていたと考えられるが、秋瞳もこのような状況のなか、師大西圭斎を通じて長崎派画風を学んだのだろう。先にあげた日記資料等からうかがえるように秋瞳は江戸に居住し、師大西圭斎、松崎懐堂といった人物と日常的に交友できる環境におり、作画活動もほぼ江戸で行っていた。この長崎派画風を核として、それ以外の中国画風、なかでも相j畢正彦氏が指摘される張秋谷などの憧南田画風の学習(注4)、渡辺畢山一門との交友があり、さらに題材の観察に基づいた鳥獣描写の工夫、華麗な画面構成の追求により、秋瞳画風を確立したことと考えられる。以上、岡本秋障の作品調査にもとづき、秋H軍画風の画風展開と19世紀半ばの江戸画壇における位置について考察を行った。引続き未見作品の実査を進めたい。(1) 「岡本秋嘩逸事」(『絵画叢誌J第20号、1888年)(2)山口花兄郎「岡本秋障伝」(『絵画叢誌J第40号、1890年)(3)武居梅枝「岡本秋障の事実数候」(『絵画叢誌』第212号、1902年)(4)喰-57-

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