鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑦ 尾形乾山の絵画研究者:学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程単位修得退学1 はじめに陶工として著名な尾形乾山(1663〜1743)は、晩年に江戸へ下向し絵画制作に励んでいる。その史実は、琳派研究において「光琳芸術を江戸へ定着させた」行動として取り上げられてきた(注1)。しかし、それは酒井抱一(1761〜1828)によってなされた『乾山遺墨j(1823年刊)編纂事業に起因する考察であり、それだけでは乾山絵画の本質を理解することはできない。『乾山遺墨』を再検討した結果、光琳様式を示す作品のみが掲載されているのに対し、乾山独自の画風である和歌を伴う草筆の作品が排除されている傾向を確認した。そうした状況とは正反対の事例として、乾山独特の作風が『畢山俳画譜』(1848年刊)において「俳譜絵jの「風韻」を備えていると最高の評価が与えられている一節に注目する。光琳の弟としての興味から『乾山遺墨』が出版された背景とは別に、「俳画」の歴史の中で愛好されてきた様子を知る。乾山絵画の特質が江戸の文人画家渡辺畢山(1793〜1841)によって理解されていることは重視すべき課題である。そこで、従来の枠組みでは捉えきれなかった「俳画的」画風について、どのような制作背景と文化状況によって生まれたのか考えてみたい。江戸下向した享保年間(1716〜1733)は、絵入り「俳書」が盛んに出版され、新しい江戸文化が開花し始める重要な時期である。特に、その交流が確認できる俳人菊岡泊涼(1680〜1747)により出版された『百福寿j(1717年刊)の画面構成を分析した結果、共通点を見出すことができた。「俳画」との接点から一考察を試み、江戸下向と絵画制作の意義について捉えなおしていきたい。2 『乾山遺墨j(1823年刊)の特徴『乾山遺墨』は最初の絵画図録として価値があるが、「光琳顕彰事業」の一環において出版され、光琳様式を模したものと云われる系統の作品が主流となっている(注2)。抱ーが見たと推測できる乾山絵画を『武州行田百花語大津家蔵品展観入札目録』(注3)や『住吉家古画留帖』(注4)などから探り、乾山独自の画風をしめす作品が取り除かれていることを報告し、『乾山遺墨』編纂の特徴を指摘する。所載作品の4分のlが一括して行田の大津家の旧蔵品であることが分かつており「俳画」との接点安田彩子61

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