鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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(注5)、そのうち横長の小品としては「松図」「夕顔図」「花龍図」「梅図」が売り立てられている。『乾山遺墨』と比較すると、「梅図」「夕顔図」「松図」〔図1〕を見出すことはできるが、和歌を添えた「花龍図J〔図2〕のみ掲載されていないことを知る(注6)。刊行後に所蔵になった可能性もあるが、抱一の主観により取捨選択されたことも考えられる。当時出回っていた作品については、寛政10年(1798)から丈政11年(1828)までの住吉家の鑑定記録である『住吉家古画留帖』から類推できる。住吉家には42件の乾山絵画が持ち込まれており、そのうち横長の小品としては「糸瓜図」と「白百合図」が近い時期に鑑定されている。「糸瓜図」〔図3〕が『乾山遺墨』に掲載されているのに対し、「白百合図」〔図4〕は取り上げられていない。作風の違いを見ていくと、「糸瓜図」の蔓の部分には繊細な線で流れるような筆致があり抱一好みの描写がされているのに対し、「白百合図Jは草書体の和歌を伴う略画である。「糸瓜図」の蔓の描き方は「夕顔図」〔図l〕にも見られるもので、こうした筆致の作品を掲載する一方で、和歌を添えた草筆の作品が取り上げられていない。また、「兼好法師図J(梅沢記念館)〔図5〕は、草書体の和歌に略画の描かれた作品で、抱一の識語のある箱書きが遣されている(注7)。箱書きには年紀のデータがなく、刊行以後に鑑識したことも考えられるが、作品の存在を知りながらもあえて無視した抱一の姿勢を読み取ることもできる。抱ーにとって光琳的要素が大切であったことは明白である。『乾山遺墨』において恋意的に排除された作品に共通する特徴は、草書体の和歌を伴い、略筆で描かれた画を添える画面構成である。しかし、その画風こそに乾山独自の特色がある。3 『華山俳画譜』(1848年刊)の一節では、乾山独自の画風は江戸の人々には受け入れられなかったのであろうか。光琳人気の影で、京都の琳派の流れを江戸へ定着させた芸術家としての側面のみに関心が注がれてきたのであろうか。そうとは言い切れない状況を表す資料がある。『乾山遺墨J刊行後25年の時を経て、江戸の文人画家渡辺峯山は「俳諾絵」の「風韻」を備えた作品を描く画家として乾山に高い評価を与えている(注8)。琳派の流れとは別に、「俳画Jの歴史の中で乾山絵画が享受されてきた伝統を窺わせる。『畢山俳画譜』は、渡辺華山が田原聾居中に弟子の依頼により描いたものを、鈴木与兵衛(三岳)が刊行したものである。序に「元禄の頃に一蝶、許六などあるけれども、風韻は深省などまさっている。風流の趣は光悦や松花堂にはじまり、俳諾では立国見事であり、蕪村もおもしろく思われる。」〔図6〕という内容が述べられている(注9)。序に続いて松花堂、立圃、光悦、一蝶、許六、蕪村の画がうつされているが、深省す62

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