鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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なわち乾山の画はない。どのような画を指して「風韻」を備えた「俳語絵」と捉えているのか明確なことは分からないが、畢山の画論と自筆の俳画から推測していきたい。畢山は「絵事御返事」(1840年)にて「風韻は求めていないし、風趣についても人に教えることではない。jと言いながら、『古画品録Jの気韻生動を重要視し、その基本としては写実の精神をおいて描くことを強調している。また遣された俳画についての研究では写生に即し、現実の情趣を捉えたものであることが指摘されている(注10)。そうした研究を踏まえ『畢山俳画譜』の華山自筆の俳画を見ていく。第8図〔図7〕は、夕立の降る中を馬の上の男と連れ添う男の笠が飛ばされそうになっている図で、写生に即した俳画であることが考えられる。それに対し、第7図〔図8〕は朝顔が一輪あるだけの画面となっている。序で畢山は「素朴なるが風流に見え候Jと述べており、この朝顔図が真意をついた俳画であることが指摘できる。朝顔図のような素朴なものが、華山の想定しうる乾山絵画であり、「風韻jがまさると評価されたのであろう(注11)。畢山は風流の趣を本阿弥光悦(1558〜1637)や松花堂昭乗(1584〜1639)にはじまるものと捉えており、必ずしも俳句を伴った画のみを取り上げて言及しているわけではない。つまり「俳画」について論究する場合、俳句を伴っているか否かにかかわらず、画面内に趣深く描かれていることが重要視されるのである。乾山も俳句を詠むことはなく、俳句を添えた画を描いているわけではない。しかしながら画風の特徴を見ていくと、没骨描法により略筆で描かれた画と書が融合した画面は、味わい深い。そうした作風はどのように生まれたのであろうか。草筆で描いた画に賛を伴う画風は、一見すると松花堂昭乗の禅画とも共通する特徴である。「禅画」を絵付けした陶器作品は既に京都にて制作されている。しかし、京都では漢詩を書していたのに対し、江戸では和歌を伴う作品が生まれている傾向を指摘できる。さらに書と画が融合した画面構成も、江戸で生まれた絵画作品だけに見られる特徴である。その違いを交流したパトロンによるものと捉え、京都における制作背景を把握し、乾山芸術がどのように形成されたのか辿る。そして、江戸下向して絵画制作に励んだ経緯を理解したい。尾形光琳(1658〜1716)が「禅画」を絵付けし、乾山の漢詩を添えた作品は、恐らく光琳・乾山ともに庇護したこ条綱平(1672〜1745)の影響下で制作されたことが推測できる。まず、京都における綱平との交流の様相を確認しておく。『二条家内々御番4 京都で制作された陶器作品との比較京都から江戸へ63

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