鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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所日次記』によると、綱平と乾山が密接に関係し始めるのは元禄6年(1693)のことである(注12)。その頃、乾山は「習静堂」に隠居し黄葉僧と交わり(注13)、その「習静堂Jに綱平が立ち寄る。綱平の関心は黄葉僧と交わっていた乾山にあったことが指占商できる。徳川政権下における公家の務めは「公家諸法度」で定義付けられているように、公家は学問に励むことに対して家領をもらうという立場である。学問奨励において最も尊ばれていたのが儒学である。儒学が重要視されていた時代に人々は中国への憧れを強く持つようになる。鎖国下における黄葉宗の流入は、新しい学問を求める人々に大きな影響を与え、その僧達が果たした役割は大きい。そうした観点から綱平と乾山の交流を探っていくと、当初綱平の興味は光琳よりも黄葉僧と交わっていた乾山にあったのではないだろうか。元禄6年に20回も二条家へ伺候し、「御伽」としての務めを果たしている。その翌年には鳴滝泉谷の土地をもらい、綱平の援助のもと開窯の準備を始める。もともと尾形家と二条家との繋がりは強く、兄弟・父子そろって挨拶に赴くことはそれ以前にもあり、また乾山よりも光琳を気に入っていく態度も見て取れる。しかし、元禄6年に限っては光琳は未だ5回しか伺候していない。そうした背景においてJ禅面的」画面を表出した陶器作品に優品が遺されている事情を理解することができょう。京都において芸術的にも経済的にも支援した二条綱平は享保17年(1732)に没する。その前年の16年に、公寛法親王(1697〜1738)下向の折随行して江戸へ赴いている。それは新しいパトロンを求めての旅と捉えることが可能で、ある。当時の江戸は参勤交代により各藩の大名が集まり、芸術家にとっては重要な地域となっている。乾山の場合、既に上野寛永寺の輪王寺門跡となった公寛法親王が経済的には最大の援助を与えている(注14)。ただ公寛法親王の文化サロンについての詳細な研究は今後の課題として残されており、その実態については解明されていない。従来の研究では、親王とのつながりは京文化を交流しあうものと捉えられ、江戸における乾山の立場は京文化を代表する芸術家としてのイメージにより歓待されたことが語られてきた。しかし、江戸で制作された絵画を見ていくと、伝統的様式を踏襲するものではなく、また光琳様式でも陶器作品で見せた画風とも違い、独創的な作品が生み出されているのである。書を暗み「禅jにも精通した乾山が、晩年に自画自賛の書画を制作するようになるのは当然の成り行きである。「丈人」のイメージを併せ持つ書画創作は、当時の江戸の人々に好意的に受け入れられたのである。そうしたイメージを利用して、乾山自身は江戸の新しい需要に応えて積極的に制作活動に励む。これまでとは違った角度から江64

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