戸下向の意味と絵画制作の実態について一考察を加える。江戸下向した当時、盛んに出版されていたのが江戸座の俳人達による「絵俳書」である。俳句をともなった「俳画jが版本化され人口に脂突していた状況において、その「俳画」に影響されたことは充分に考えられる。絵入り俳書は、既に明暦2年(1656)の『いなこjに始まり、江戸貞門の俳人による『俳諾画空事J(1660年刊)も刊行されている。そうした歴史を経て、享保年間(1716〜1733)の江戸において「絵俳書」の刊行は全盛期を迎える(注15)。特に江戸座の俳人達は「絵俳書」の刊行を特徴として成長したとも言われている。「絵俳書」の流行に先火をつけたのが、享保2年(1717)に菊岡泊涼により出版された『百福寿』である。『百福寿』は当時非常に評判になった俳書で、その中の一句と挿絵は柳沢洪園(1704〜1758)の『ひとりね』のなかにでてくることが指摘され(注16)、画と句が広く知れ渡ったものであることが分かる。菊岡t占涼は、享保18年(1733)刊の『近代世事談』に乾山焼きのことと光琳の絵について述べている俳人である。この資料は古くから有名で「乾山焼一尾形深省、嵯峨鳴滝辺の士を以焼きはじむ。鳴滝山は王城の乾にあたれり。よって乾山を名とす。深省は属形光琳の弟にして現在也。又、詩文和歌を善くすjとある。乾山焼きが紹介され「現在也」と今も生きている記述がなされていることは、乾山との交流を予測させる(注17)。そこで、『百福寿』の挿絵に見られる図様の特徴を分析して共通点を指摘する。『百福寿』は、菊岡泊涼が俳人百人に発句を詠ませたものに、新明全角と揚雲斉玉全(「お多福jのl図のみ)が挿絵を寄せた「絵俳書」である。半丁の四角で固まれた枠内に、絵と発句が描かれている。殆どの挿絵を描いた新明全角は、30帖目で専門絵師ではなく魚河岸で仕事をしているものであることを自白している。画風の特徴を見ていく。「柳」〔図9〕では柳と蓑笠が象徴的に描かれており、俳画趣を捉える画として略筆により一つ一つのモチーフが記号として象徴化されている。「都ぴた家j〔図10〕と「千鳥」〔図11〕を見ると、前者では絵に接して俳句が書され、後者では鳥の飛んでいる場所に呼応して書が散らされている。書と画は俳句と挿絵の両方から俳意を汲み取る画面を作り出す為に、喜画の融合が試みられている。「竹に烏瓜J〔図12〕でも、すっと伸びた竹の枝先に句が配されている。画は略筆化され、句と画の両方から俳画趣を読み取る画面構成は特徴的である。「定家詠十二ヶ月和歌花鳥図」を代表作品とした乾山絵画の特質と比較するといくつ5 『百福寿』(1717年刊)の挿絵との画風上の共通点-65
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