かの共通点が見出される(注18)。草筆で描かれたモチーフは一つ一つ強調して描かれ、書と画は呼応しあい融合した画面を創出している。もちろん版本という形式と乾山の書を伴う絵画作品とでは、作品の持つ機能に大きな違いがあることは確かである。しかし、乾山独自の画風が「絵俳書」の影響を受けて生み出されたことを指摘することは可能であろう。「絵俳書jの画面構成に示唆を受けて、書画の融合した構図感覚や、モチーフを強調して描く画法を会得したのである。従来の研究では、江戸下向を果たして絵画制作に励む史実は、光琳の弟という観点から光琳様式を江戸へ定着させたという文脈に考察の焦点が絞られてきた。しかし、乾山絵画には光琳様式とは違う独特の魅力が潜む。京都から江戸へと芸術活動の場を移し、成熟期を迎えつつある江戸において制作された書画は、江戸文化の開花という側面からも重要な位置付けができる。とりわけ、江戸における「俳画」の歴史の中で享受され、『峯山俳画譜Jにおいて最高の評価がなされていることは注目に値する。光琳人気の流れから酒井抱ーにより『乾山遺墨』が出版された背景とは違う歴史があることを知る。三条綱平の影響下で制作された陶器作品では「禅面的」な画面を作り出していたのに対し、江戸下向した後は漢詩ではなく和歌を書すことが多くなり「俳画的J画面を創出する。そうした姿から、京都根生いの文化人でありながら黄葉宗に参禅して漢詩を詠み、晩年には和歌を詠むことが多くなるという日本化された「文人」のイメージを重ねることができる。乾山独自の画風が江戸で愛好された理由も、そうしたイメージによるものと考えられよう。当時の江戸では俳詰が流行し、絵入り「俳書」が盛んに出版され、人々に身近な文化として隆盛を極める。俳諾文化は江戸文化の大きな柱のーっとなって発展する。その文化に示唆を受けて乾山絵画が創出され、江戸の人々にもてはやされたことは、江戸琳派の形成を考える上でも非常に興味深い。光琳様式をそのまま江戸へ持ち込むのではなく、京都とは違う文化を成熟させていく江戸の需要に応えて、新しい芸術を生み出したのである。時代の好みに瞬時に対応して伝統文化との融合をはかるのが、琳派画家達の共通した作画姿勢であり作風である。そうしたことを考え合わせると、江戸琳派を生み出した創出者としての乾山の姿が再び、浮かび上がってくる。6 おわりに66 -
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